明治30年頃の書生(学生)の服装は?


札幌農学校の学生である。写真を見ると、学生服姿と着物に袴姿が半々である。また学生帽もみえる。

星野純逸送別記念(明治30年) 病気のため中退した星野(中央の和服姿)は、「星座」の主人公星野清逸のモデルとされている。星野の右前有島武郎。
北海道大学資料(札幌農学校)

 詰め襟の「学生服」が初めて登場したのは、明治12年、学習院(皇族・華族などの子弟を教育、宮内省直轄)が、海軍士官学校の「制服」を採用したのが始まりとされている。その後、明治19年4月、帝国大学が菱形の学帽と制服を制定したのが契機となり翌年頃から、高等師範学校(東京教育大学)、高等中学校(旧制高等学校の前身)、そして帝国大学など学生の制服として採用されていく。

もちろん、かすりの筒袖和服に袴を着け、下駄ばきという「書生」スタイルの学生も多くいた。いやまだ着物が主流であったであろう。
大正14年初夏の銀座における和洋服装の比率は、男子の和服33:洋服67に対して、女子は和服99:洋服1という状態で、女子の洋装はごく限られたものでしかなかったそうだ。昭和の前半期には女子の服装の洋服化がさらにすすめられた。

(参考:「制服の歴史」:制服についてのレポート(「くれよん」No.11、1993.7.15より))

有島武郎(1878~1923)は近代文学・白樺派を代表する作家である。明治29年(1896年)農業へのあこがれにより、東京から札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である新渡戸稲造宅へ寄宿。 札幌生活を送るうちに、有島武郎は札幌を「真生命の故郷」という程、札幌を愛するようになる。
彼の最後は親しくなっていた人妻で婦人公論の記者、波多野秋子と軽井沢へ向かい愛宕山の別荘で心中した。

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コメント

No title

いいですねえ。バンカラと言う言葉そのもの。

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学生の時より年をとってからあこがれますね。先生の腰手ぬぐいなんか皆で馬鹿にしていましたが今は反省しています。もっと旧制高校のことを聞いておくべきだった。

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和洋折衷っていうかおしゃれですね。

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bakearttae さん、そうですね。着物は正式にはこう着るべきというのは商業主義ですね。普通は絹の着物でなんか学校へ行きませんよね。
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