家相の神秘 公開 成田山境内 2017正月


家相の神秘 公開 成田山境内 2017正月

2017年1月11日(水)、平日なので参拝者も少ないだろうと成田山へお参りした。しかし、参道は歩行者天国ではなく、一方通行で自動車が通っているので参拝者は少なくなっていたが両側にあふれていて混んでいた。

本堂はそんなに混雑はしていないが出世稲荷は油揚げとローソクを持った人が順番待ちをしていてお参りするのに意外と時間がかかった。

千葉県の成田山新勝寺の境内にいつもお正月になると家相の解説者が現れる。境内から出世稲荷への階段を上がった小さな広場にいるいつもの家相師に今年も会えた。今年もなんとか無事に一年過ぎたことを感じた。

今年の干支のことを話題にして興味を引いた後、手書きの看板を指しながら解説していき、たくさんの参拝客が熱心に聞いている。

家相に関する話の中で皆が良く知っていることわざ、これが「八方ふさがり」というなどと説明する。面白くて分かりやすい。

すぐ近くには毎年出ているがまの油の露天が出ていた。全く客はおらず、干からびたがまの干物が並べてあるだけであった。

今まではそのまま机に置いていたが今年はビニール袋に入っており、なんだか食品の乾物屋みたいになっていた。それはないだろう。

10年以上前は全国各地から来たという現金書留の古い封筒が横に山積みされていたのが懐かしい。


参道では猿回しがいた。今年は元旦から平日もやっているとのこと。
いまの猿回しは運動能力をアピールするスポーツ大会のようになってしまった。昔は人形を背負って子守しながら歩くとか怪我をしてびっこになるとかの劇や演技をやって観客が大笑いをしていた。今はないようだ。


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船橋 まちかど音楽ステージで昭和歌謡 (43rd)


船橋 まちかど音楽ステージで昭和歌謡 (43rd)
(写真:有坂拓海@365日路上垢 @365rojou さん)

2017年1月6日、毎週金曜日の夕方に開催されている船橋市公認ライブ「まちかど音楽ステージ」に参加してバイオリン演歌で懐かしい昭和歌謡を演奏した。これで43回目の出演である。

船橋駅近くのいつものカラオケ屋さんで練習。年末年始は自主練習以外活動していなかったので久しぶりに二人で合奏練習をした。

次の新曲として昭和25年、伊藤久男の「あざみの歌」を練習した。6/8拍子の曲だがカラオケ・ダンスパブではこの曲でワルツを踊っていた。
本当は「空の神兵」を作曲した高木東六の「水色のワルツ」なら本当のワルツの曲になるのだがーーー。これも昭和25年の曲である。

さすがに1月の日没後は寒くなってきた。風がないのが幸いであった。

唱歌はお正月なので「一月一日」と「冬景色」。冬なので久しぶりに「津軽海峡冬景色」を演奏した。また、「お富さん」を歌うと聴いている方が手拍子をしてくれたのがありがたかった。

初代コロムビア・ローズが歌った「東京のバスガール」も歌ったが修学旅行やバス旅行でガイドのお姉さんが歌ってくれたのが懐かしく思い出す。

最後に船橋市にある陸上自衛隊 第1空挺団のテーマソングである「落下傘部隊の歌(空の神兵)」を歌った。今度の1月8日(日)、あさってに初めての降下訓練がありそのときには必ずこの曲が流れる。


平成29年 第1空挺団 「降下訓練始め」

日時:平成29年1月8日(日) 
11:00(08:30開門)~12:00(14:00完全閉門)

場 所:習志野演習場







2017年1月6日(金)出演者
午後5時        カンゴ
午後5時30分昭和ロマンを楽しむ会(バイオリン演歌)
午後6時        SASHA(サーシャ)
午後6時30分兄城 さとる
午後7時       ばしふな
午後7時30分ノリヨシ
午後8時       奏志 キワミ

場所:京成船橋駅-船橋フェイスビル連絡デッキ

<昭和ロマンを楽しむ会の出演予定>
船橋市公認「まちかど音楽ステージ」    
2017年3月31日(金)  17:30-18:00
2017年4月28日(金)  17:30-18:00

新宿区 レガスまつり
2017年4月8日(土)10:15~10:45
1F ロビー ONステージ  昭和ロマンを楽しむ会
場所:新宿コズミックセンター  新宿区大久保3-1-2 
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思ひでのダンスホール 戦前編


1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景

思ひでのダンスホール 戦前編

ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号に戦前のダンスホールを懐かしがる記事が掲載されていた。懐かしさと現状のダンスホールを嘆いていて「昔は良かったなあ」と感じているのがいつの時代も同じだと平成時代から見ても面白い。

ルディ・ヴァリー(Rudy Vallee) が1930年に歌ったスタインソング(乾杯の歌、Stein Song)などが流行していたらしい。

<記事要約>
夢よ、もう一度!! One Dance 5 Sen時代! One Yenで二人でラストまで頑張れた!

昭和15年、蛍の光の曲で一生の踊り納めと思ったダンスが終戦のおかげで再び復活した。

東京でもオアシスオブギンザ、サンタフェ、メリーゴールドなどのホールがオープンした。それから数年、ダンスが大衆化されて行くにつれて、田舎には野良ダンス、会社工場には職場ダンスが流行してだれもかれもダンスに熱中してきた。

しかし、昔のダンスエチケットが全く失われてしまった。ダンスホールからキャバレーに移り変わり、踊りが半分、酒、タバコ、それに金に物をいわす時代になった。これでは西部劇の社交場(酒場)になっていしまいそうだ。愚痴を言ってもきりがないので戦前の各ホールを紹介してみよう。

当時、東京の8大ホールといえば、まずフロリダを筆頭に新橋、銀座、日米、國華、ユニオン、和泉橋、帝都などをあげ、郊外には浦和、川口、川崎、東横、花月園等があった。

フロリダ(赤坂溜池)
夜はさびしいあの溜池に思わぬジャズの音が響くホール。ホールの設備もバンドも客種も他のホールでは味わえぬ雰囲気だった。諸外国の外交官なぞも多く来ていたようだった。ダンサーは背の高い外人向けのスマートなのがそろっていた。

新橋(芝口交差点、太田屋ビル階上)
あまり広くはないが見物席とバンドが2階にあり、ホール向きに設計しており申し分なかった。ここではよく不良の縄張り争いがあって血なまぐさい騒ぎを起こしたのがキズだった。

銀座(京橋交差点角、星製薬ビル6階)
大衆向きホール。テケツ(チケット)もランチタイムが5銭、ヒル券10銭、夜券20銭。ここのファンは銀ブラ連中と、カフェーの女給さんが昼間よく遊びに来ていた。

帝都(新宿帝都座5階)
一番遅くできたので場内の設備も良かったが入口が裏の細い楽屋裏からエレベータで上がる感じが悪かった。お客は会社員が多かった。

日米(八重洲口)
他のホールに比べてすこし小さいけれど、場所柄重役級の上品な客が多かった。年配の紳士がそろっているのでいっそう落ち着きを見せていた。バンドはフィリピン人をよく使っていた。

國華(京橋八丁堀)
ここも大衆向けホールでランチタイム5銭、ヒルは10銭、夜券16銭であった。ヒルは付近の株屋さん連中のお客で占めていた。

ユニオン(人形町松竹映画劇場4階、日鮮館ビル)
株式取引所と問屋街が近くにあるので、番頭さん風の粋な人や芸者さんや半玉やお座敷帰りの客が見物によく来ていた。和服で踊っている客の数はこのホールが一番多かった。日本物の曲がバンドにより多く演奏されたのも特色。
一流のプレイヤーを上海から特に呼んで業界に大きなシゲキを与えていたのが今でも印象に残っている。

和泉橋(神田岩本町交差点)
場所柄学生が多く、時節柄制服がやかましいので上着だけ背広に着替えて踊りに来ていた学生ファンで相当にぎわった。当時「制服お断り」、「ネクタイなしお断り」、エチケットをやかましく言ったのでホールの近所で洋服を貸す店さえできたほどだ。全くウソのような事実である。

1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景。

【松竹では春の新作「非常線の女」を撮影中だがその一シーンに登場すべき眉目型美はしのダンサー五六名を是非懇望したいと赤坂のフロリダに申入れたので二十四日午前十一時同ホールで大掛りなテストをやつた、松竹側からは大谷社長、城戸所長、田中絹代ナンテ幹部所から下回りまで總出動、フロリダでも百六十名の美姫中から選り抜きの綺麗ところを集めて津田支配人初め大童だ。


ダンスホール 
銀座
昭和5年











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ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号



ダンス雑誌「モダンダンス」
(The Modern 
Dance)

復刊 
昭和24年7月号










どうして昭和24年頃の雑誌「モダンダンス」が手元にあるのか良く分からない。英語の雑誌でもないのに誰かが譲ってくれたのだろうか。連合国占領下の時代である。「The New Yorker」という雑誌も実家にあったがこれは米軍関係から入手したのであろう。

ダンス月刊雑誌「モダンダンス」は昭和8年(1933)に創刊された雑誌であるが昭和15年(1940)に廃刊(休刊)のやむなきにいたった。この年、昭和15年にはすべてのダンスホールも閉鎖してしまった。
(昭和15年7月に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)による)

復刊号(昭和24年7月号)70円の編集後記を見ると戦時中、戦後のダンス界の状況がよく分かった。

創刊した昭和8年(1933)は「昭和8年 戦争への足音」といわれる年である。日本は国際連盟を脱退し世界から孤立。ドイツではヒトラーが政権をとり、アメリカではルーズベルトがニューディール政策を開始した。

「昭和15年7月、8月号を終刊号として出してから、10年の月日が流れた。昭和8年春からの過去は、編集者として、今、回想しても、ゾットする息苦しい時代だった。誌上に取り扱う事象の面に加重する時代の圧迫と遠慮ーーー 今日、晴々とした陽の目を仰ぐような気持ちで復刊号を手がけつつ、顧みるとすべてが悪夢としか感じられない。

なつかしい誌名が大手を振って、ここによみがえるーーーー」

昭和ロマンというけれど戦時中は「ロマン」なんかなかったということだと実感した。

戦後も昭和初期と同じように「ダンス不良化第一歩説」がまた出てきたとの記事が面白かった。平成の今も歴史「XXは不良化の第一歩」は繰り返している。

「警視庁防犯部がダンス関係業界人30名(キャバレィ、ダンスホール)ほどを招いて「ダンスと少年補導」について雑談会を催した。申し合わせで決定した主な事柄は、ホール内に警備員をおいて18歳未満者の入場を厳禁すること、ダンスエチケットの箇条文の掲示などであった。」

警視庁の調べでは、強盗、スリなどの少年犯罪は都内で2分間に1階の割で発生しており、その不良化の第一歩がダンスに始まっている例が多いという(朝日新聞5月12日記事)。

これに対する反論はダンスが少年を不良化するのではなく、すでに不良化した少年、容易に不良化する少年がダンスより前にすでに社会に充満しているのである。少年補導はキャバレイとダンスホールのフロアーより、ずっと遠いところから始めなければならない。これが補導の第一歩だ。
30年前にも「活動写真を少年少女が見に行く」のが不良の第一歩だったと。玉突き、麻雀などはどうか、ダンスだけではないのではなど。

この雑誌の中の「ダンス新聞」に「青少年不良化防止にダンス界も協力」<警視庁主催の懇談会>記事があった。
昭和24年5月10日午後1時から警視庁貴賓室に都下各キャバレー及びダンスホール業者と教師団体(NATD)並びに教授所経営者を招き、防犯部長、少年第一、第二課長、保安課長、都防犯協会連合会長、都教育局、都民生局、都少年補導連盟等各関係者も列席して懇談会を開いた。
結論:ダンスを通じての青少年不良化防止のために業者と当局は積極的に協力する。、業者は専属の場内係りを急速に設置する。、場内に「社交礼儀」を具体的に欠いた掲示をする。
以上をもとに、都下の各ホールで当局の協力の下に今後場内での不良行為とワイセツダンス及び未成年者の入場は徹底的に取り締まることに決定。


復刊号裏面には「日本最大・最高のホール オアシスオブギンザ(銀座松坂屋地下)」と場末である品川駅前の「都下で最も安いホールパラマウント」の広告があり面白い。

それぞれ「最大・最高」と「最も安い」を売りにしている。

ダンス用語英語の表記が現在と異なっていた。昭和24年頃までは下記のように記載されていた。発音は英語表現なら現在と変わらないし昔の方がより実際の発音に近い表記(ウオルツ)かもしれない。

クヰックステップQuick Step)、ウオルツ(Waltz)、ルムバRumba)
スロー・フォックス・トロット(Slow Foxtrot)、タンゴ(Tango)
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【戦後70年】戦後まもなく百貨店で花開いた復興のシンボル「ダンスホール」

【戦後70年】戦後まもなく百貨店で花開いた復興のシンボル「ダンスホール」(産経 2015年8月13日記事)

大勢の人でにぎわうダンスホール=昭和22年、高島屋大阪店

2015年には戦後70年の特集で産経がダンスホールを取り上げていた。
終戦後は焼け残ったデパートがダンスホールになったようだ。東京では銀座松坂屋地下、大阪ではミナミの高島屋大食堂跡がダンスホールになりダンサーが100名いたそうである。

ダンスホールで楽しそうに踊る人々=昭和22年、高島屋大阪店
<記事>
戦後間もない昭和22年、大阪・ミナミの高島屋大阪店に「復興のシンボル」となったダンスホールがあったことをご存じだろうか。百貨店が手がける安心感と健全さが人気を呼び、連日、生バンドに合わせてダンスを楽しむ男女でにぎわったという。同店担当者は「復興に向けて盛り上げたいという大阪らしい発想と実行力を感じる」と話している。(上岡由美)

戦前、ミナミではダンスホールが活況だったが、第二次世界大戦が始まると相次ぎ閉鎖。空襲で周辺一帯も焼け野原になった。終戦後、暗い雰囲気を払拭しようと、ダンスホールを復活させる機運が高まる。

高島屋も被害を受けたが、当時の営業部長の発案で大食堂跡をダンスホールに改造。会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として終戦丸2年となる22年8月15日に営業を始めた。

高島屋史料館の川上和男課長(44)は「ダンス助教師を養成するのに、男性従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けたそうです」と話す。

23年10月には一般公開され、バンドマン約20人、ダンサー約100人を配置。もともと1300席が入った大食堂の跡地に造られたダンスフロアだけに、天井が高く広々としていたが、連日200人以上の人々が詰めかけるなど、床が見えないほどの大盛況だった。ハワイアン、タンゴ、ジャズなどの音楽に合わせてダンスを楽しんでいたが、25年9月、店舗の改装工事のため、3年で幕を閉じた。

当時の社内報には「勤務を終え、われらダンスマニアにとつてはもつとも楽しかるべき夕暮のひととき、あのしびれるようなスイートメロデイーにのつて疲労を忘れ、空腹さえも忘れて…」という社員の投稿が掲載されている。川上課長は「当時も今も元気の発信は大阪。暗い世相を払拭しようと設けられたダンスホールがあったことを知ってもらえれば」と話している。

1947(昭和22)年 ダンスホール開業
戦災を受けた大阪店高架下大食堂街跡をダンスホールに改造し、1950年までの3年間営業を続けました。戦災を被ったままになっていた大阪店の大食堂跡地に、昭和21年9月、同街のサロン食堂跡に喫茶を主とする食堂を復活しました。しかし、食糧統制強化により材料不足で数ヶ月で閉鎖。その後、流行のダンスホール経営を試みることとなりました。
当初会員制ダンス教習所「高島屋ボールルーム」として22年8月15日にオープン。大きなスピーカーでレコード音楽を流し、高島屋養成の40名のダンス助教師を配して営業しました。男子従業員の制服は軍隊の払い下げを染め直し、ダンサーももんぺ姿で教育を受けました。
昭和23年10月、ダンスホールとして営業許可下がり、チケット制で一般公開しました。
バンドマン約20名、ダンサー約100名と専属契約を結び、連日音楽に合わせてダンスを楽しむ人々で大盛況でした。京マチ子主演映画「地下街の弾痕」のロケで使用されるなど、話題のスポットでもありました。
昭和25年9月、駅ホームの改装工事のため惜しまれながら幕を閉じました。
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懐かしいダンスホール  昭和時代


尼崎ダンスホールの広告(『ダンス時代』昭和9年4月、第2巻第7号掲載)
ダンサーとは1曲5銭と記載。

ダンスパレス(『ダンス時代』 昭和8年10月、第2巻第1号掲載)

昭和ロマンといえば「ダンスホール」がある。昭和の初めには東京や大阪などにダンスホールがたくさんありモガやモボが集まっていた。つまり不良が集まっていて当時の新聞ネタになっていた。


やがて戦時体制が深まるなか、昭和15年7月に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)により、すべてのダンスホールが閉鎖された。

奢侈品等製造販売制限規則(昭和15年商工省・農林省令第2号):
当時の商工省(現:経済産業省)及び農林省(現:農林水産省)が国家総動員法を根拠に発した、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令

そして終戦後、1945年(昭和20)には進駐軍兵士の慰安のためにダンスホールが次々と開設された。しかし、日本人は利用できなかった。

東京では、オアシス・オブ・ギンザをはじめとして、美松、ハレム、銀馬車、グランドパレス、エーワン、ショーボートなどが開業したとのことである。


昭和21年に日本人専用ダンスホールが再開した。
「オアシス・オブ・ギンザ」は銀座・松坂屋地下にあり日本最大のホールで400名のダンサーがいたようである。その後、日本人(敗戦国民)も利用できるようになりダンス雑誌に宣伝が出ている。

熱海にも富士屋ホテルなどダンサーが50名もいる施設が2施設あったようだ。


<戦後復興の明朗化>

ダンサー、芸者、淑女、接客係、通訳、楽士などを募集。
芸者と淑女、接客係との違いが良く分からないが同じ枠で募集している。


<進駐軍用の慰安所・娯楽場>
オアシス・オブ・ギンザ  キャバレ- 銀座松坂屋地下  ダンサ-400名 
千疋屋   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-150名
 耕一路   キャバレ-     銀座八丁目     ダンサ-20名
 伊東屋  ダンスホ-ル     銀座三丁目     ダンサ-300名
 緑々館  キャバレ-      銀座西三丁目    ダンサ-50名

パラマウント  キャバレ-    品川 京浜デパ-ト    ダンサ-350名
東光園   キャバレ-    芝浦    ダンサ-30名 慰安婦10名 
小僧閣   キャバレ-     赤羽      ダンサ-100名
ニュー・キャッスル   三鷹     ダンサ-150名 慰安婦100名 
楽々ハウス      調布    ダンサ-25名    慰安婦65名 

立川パラダイス  キャバレ-  立川 ダンサ-50名   慰安婦14名 
富士屋ホテル  ホテル・キャバレ-  熱海      ダンサ-50名
大湯    キャバレ-・ダンスホ-ル  熱海      ダンサ-50名

ここから戦後のダンスホールが営業を開始し戦後のダンスブームが始まった。占領下の東京で専門学校に通っていた母によるとダンスはパーティなどでは必ず踊られたそうだ。

日本占領方式は連合国軍による日本政府を通じた間接統治であった。このため知事よりも進駐軍司令官の方が偉い、権力がある状態であり、地方有力者の結婚式などにも今なら知事を招待するが進駐軍司令官や高官が招待されたようだ。

また、共産党などもダンスパーティなどを利用して仲間を勧誘したらしい(赤化たらしこみ作戦?、共産党による文化闘争)。われわれの学生時代にも、混声コーラス同好会、ハイキング同好会というのがあってきれいなお姉さんにキャンパスで声をかけられて知らずにイベントに参加したことがある。

会社では会社・労働組合主催のダンスパーティが本社、支店、工場ごとに開催されてダンスは親睦会としてよく行われていたがいつのまにか消えてしまった。

それから社交ダンス以外のダンスが多数登場し、昭和の終わりから平成にかけて有名なダンスホールが閉鎖されていったのでそれらを記録に残したいと思う。

独身時代によく行って練習した「新宿ステレオホール」は開設から50年余、2009年11月末に閉鎖された。新宿にはコマ劇場の地下にもダンスホールがあったがこれで新宿からダンスホールが消えてしまった。

思ひでのダンスホール 戦前編
【戦後70年】戦後まもなく百貨店で花開いた復興のシンボル「ダンスホール」
ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号

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プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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