2016/11/26
不良華族事件(ダンスホール事件) 痴情地獄
不良華族事件の第一報を報じた東京朝日新聞(1933年11月15日付)
不良華族事件とは1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件。ダンスホール事件とも呼ばれる。これは上流社会に属する女性らが関わる性的なスキャンダルとして主要新聞に報じられ、登場人物には伯爵夫人や大病院の院長夫人なども含まれていた。
この事件は1933年(昭和8年)11月13日に赤坂溜池町で開業していた東京屈指の豪華な内装を誇るフロリダダンスホールの主任教師が警視庁に検挙されたことに始まった。東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社)は同年11月15日付の朝刊でこの事件を報じた。
朝刊が報じるところによると、主任教師は「日本一の好男子」と自称して女優やダンサー、良家の娘、有閑マダムなど多くの女性と関係を持っていた。
警視庁の取り調べの中で主任教師は自分に女性客を紹介したのは歌人の伯爵吉井勇の妻・徳子であることを自供した。
徳子の遊び仲間としては歌人斎藤茂吉の妻・輝子や近藤廉平男爵の次男・廉治とその妻・泰子などがおり、木戸幸一の『木戸日記』(1933年(昭和8年)11月22日)には宮内省警衛局皇宮警察部が宮内省宗秩寮総裁の木戸に対して調査報告を行った記述があり、その報告によれば徳子は1931年(昭和6年)8月中旬より近藤廉治と関係を持っていた。
なお、名曲「ゴンドラの唄」の歌詞は吉井勇によって作詞された。1915年(大正4年)、芸術座で上演されたツルネーゲフ原作「その前夜」の劇中歌として松井須磨子によって歌われた。
<歌人斎藤茂吉と妻・輝子>
1914年(大正3年)4月、茂吉は養父・斎藤紀一の長女で13歳年下で当時19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の婿養子となった。結婚2年後の1916年(大正5年)には、長男茂太が誕生している。
しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった。輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。
1933年(昭和8年)、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが大新聞をはじめとするメディアに報じられ、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。
この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある秩父や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。
その後、大東亜戦争中に輝子が茂吉の故郷・山形に疎開することになったのを機に1945年(昭和20年)から同居を再開、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。輝子自身は、80歳を超えても世界中を旅行し、エベレスト登山にまで挑むような活発な女性であった。
茂吉の不倫
妻の背信に打ちのめされた孤独な茂吉に、やがて美しい女性との宿命的な邂逅が待っていた。昭和9年9月19日、東京の向島百花園で開かれたアララギ句会で、永井ふさ子と出会う。茂吉は五十二歳になっていた。
県立松山高女を卒業後、上京して姉の家に寄宿していたふさ子は二十四歳、アララギに入会し、短歌の修行に励んでいた。開業医の父政忠が子規と幼友達だったことを知り、茂吉はこの初々しいおとめに深い関心を抱く。正岡家と永井家は祖父母が姉弟の間柄に当たり、ふさ子と子規はふたいとこということになる。彼女と出会えたのを、子規の霊が取り持ったのだとまで茂吉は思い込む。
その後、奥秩父への吟行にふさ子が同行してから、二人の親密度は増す。目の前に突然現れた美しい娘に歌人は心を奪われて行った。
師弟の関係から男女の仲に変るにはさほど時間はかからなかった。ふさ子に茂吉が送った書簡は百五十通にのぼり、その都度、恋歌が添えられてあった。読み終わった後は必ず焼却するように求められ、ふさ子はそれを誓った。
戦争が激化し、上京する望みは叶わなかった。茂吉は独りで生まれ故郷の金瓶へ疎開し、ふさ子も伊東へ疎開する。二人の縁は切れてしまった。dances,ボールルームダンス,パーティーダンス,Shall we dance?,Shall we ダンス?