2014/08/31
父の満州での軍隊生活 (5)
徴兵された若者たちへの奉天甲種幹部候補生隊での教育と訓練は厳しいものであったであろう。同期会誌によると非常演習「連珠山」行軍といったことも行われたと記載している。
しかし座学や軍事訓練以外にスポーツもやっていた。スポーツといっても剣道、銃剣道や馬術であるが、写真を見ると若者たちにとっては息抜きの楽しい時間のようであった。

満州から持ち帰って写真には当然と思われるが場所も日時も氏名も何も書かれていない。
場所が不明であるが広い馬場(乗馬練習場)の写真もあった。
幹部候補生の授業には箱庭のような立体的な地図を用いた机上の作戦会議もあった。(兵棋演習)
いろいろな写真を見るかぎり、満州の予備士官学校といってもむしろ内地よりも優れた設備や教官によって教育・訓練が行われているようだ。ノモンハン事件があった後であり、ソ連との戦争も必ず満州で始まると予測していたのだろう。
兵棋演習(War game, Military Simulation):状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究。
兵棋演習では2個以上の対抗勢力による作戦を研究するために、地形や敵情についての定量的なデータを踏まえながら確率を活用しつつ状況を再現する。軍学校では学生に対する戦術学の応用教育のために用いられる。
父は文系だったためか終戦まで徴兵されていたが甲種幹部候補生隊の同期には技術系出身なのか卒業後に日本に帰り三菱重工業神戸造船所や東北振興アルミ(郡山)等に勤務していたものもいた。戦争遂行のためには軍人も必要だが軍需産業の技術者がより必要なのであろう。
軍需工場で働いた同期は満期除隊(2年)したあとは召集延期措置になったのであろう。文系の父は終戦まで満期除隊で即日招集となっていたのだろう。
神戸造船所や東北振興アルミ工場(郡山)は米軍の空襲を受けている。必ず空襲される軍需工場勤務では対策は逃げるだけなのでそれはそれで大変だったであろう。
ボーキサイトからのアルミ精錬がなければ飛行機も飛ばないのでアルミ産業は必須の産業であった。戦争末期にはアルミ、金属不足で木製の機体や燃料タンク、プロペラが作られた。
また、戦前から「東北振興」が考えられていたとはすごいと思った。
1931(昭和 6 )年及び1934(昭和 9 )年の冷害凶作と1933(昭和 8 )年の昭和三陸津波を契機に国策として、東北 6 県の振興を図るために東北振興事業が展開された。東日本大震災の復興事業は2度目の東北振興になるのであろうか。
東北振興アルミニウム:昭和13年にアルミニウム製造が開始された。終戦後、ジャパナイト工業と名称変更したが、昭和40年には閉鎖された。東北振興アルミは日満アルミニウム富山工場からアルミナの供給を受けた。
1933年に日満アルミニウム株式会社としてアルミニウムの製造を開始。日満アルミニウム株式会社は1943年に昭和電工株式会社に吸収合併され昭和電工株式会社富山工場となる
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