「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その2


「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組
歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

東京節演奏とインタビュー:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)
明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。

番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。

CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その2>
大正14年3月、日本で初めてラジオ放送が始まった。そして短い大正時代が終わり、昭和へと移っていった。

昭和になるとレコード会社が企画・制作を手がけ、専属の作詞家、作曲家が作る歌を歌手に歌わせて発売する「レコード歌謡」が生まれた。これにより流行歌の担い手が演歌師からレコードに変わった。演歌師ではなく、レコードによって歌が流行るようになった。

レコードが国内で大量生産されるようになり庶民もレコードを買いやすくなった。この影響で、街頭で歌本を売りさばいていた演歌師はメディアとしての役割を終えていった。そして演歌師はカフェや酒場などで歌い歩く「流し」に変わっていった。

30代の終り頃、瞭月は関東大震災で閉鎖した音楽教室を以前教えていた芝区三田同朋町(現在の港区芝5丁目)で再開した。そして、作詞、作曲を行い歌手としても活動を続けていた。

瞭月が得意としたのは、元歌のリズムをくずして歌う「くずし」や小唄などの邦楽を基にした歌であった。東京にはまだそのような歌を求める雰囲気が強く残っていた。

昭和16年12月に太平洋戦争が始まった。まだその頃はレコード製作ができる状況であったため、瞭月もレコード会社へ楽曲を提供し続けた。その後、戦局は悪化し空襲はひどくなってきた。

昭和20年の春、瞭月は内縁の妻とともに故郷の上平(うわたいら)に近い栃木県河内郡羽黒村中里(現在の宇都宮市中里町)へ疎開した。まもなく終戦となり、しばらく疎開生活を送った。そのとき、瞭月はこの地に一つの歌を残した。それが「羽黒音頭」であった。

昭和30年、羽黒村は合併して上河内村となった。地元の村立中学校の音楽教師が運動会でみんなで踊ることのできる演目を探していたところ羽黒音頭というのがあることを知った。その歌と踊りをフォークダンスの代わりにできないだろうかと考えた。

羽黒音頭の魅力は羽黒全体の風景を読み込んでおり詩がよかった。詩人としても才能があった。

昭和40年、残念ながら地元の中学は統合され、その後は運動会で羽黒音頭が踊られることはなくなった。

瞭月は多感な時期を神田で過ごし、50代以降は下谷区上根岸町(台東区根岸2丁目)で暮らした。

<瞭月の娘さん談> 
「気が短くて「うるさい」とか言うが野良猫を拾ってきてえさをやったりして気持ちはやさいしい面があった。アイデアが浮かぶと夜中でも起きてギターで作曲をしていた。曲が出来上がるとどうだといって娘に聞かせて手直しなどをやっていた。」

銀座の散歩が大好き。新しもの好き、何が今はやっているかに敏感、人のやらないことをやるのが大好き。

作詞、作曲の音楽の才能以外に発明の才能もあった。発明は関東大震災以降に音楽教室を再開した頃から始めた。発明品を作って特許をとってその権利を売り音楽活動とともに生計を立てていた。

消火用ポンプ、漬物を簡単に作ることができる容器など日常使われるものをたくさん特許にした。歌だけで生活するのは大変なことだと自覚していたようだ。

昭和32年暮れ、早稲田大学図書館から瞭月はある依頼を受けた。それは、「街からいなくなってしまった演歌師の証言を残すために演歌を歌ったほしい」という依頼であった。瞭月69歳のときであった。

初めて演歌にバイオリンを使った「残月一声」を含め、35分間でかって歌われていた演歌53曲を一気に歌いきった。

70歳を過ぎても自分の作った歌をレコード会社へ売り込みに行き続けた。しかし、当時の音楽業界には瞭月が生きていく場所は限られていた。

東芝レコードで昔の演歌を記録に残すためにレコードを出そうという企画をしたが売れそうにもないので周囲はひややかだった。仕方がないので、資料もの、歴史ものとして熱烈な演歌ファン向けに発売した。

神長瞭月の出すレコードだから彼とぶつかる人は選ぶことができない。瞭月自身とその弟子筋に当たる演歌師や親交のある芸者たちが録音に参加した。和やかに収録が進み半日ですべ取り終えた。昭和43年5月、東芝レコードから「演歌集 これが演歌だ」が発売された。瞭月79歳のときであった。

昭和40年代後半になると瞭月は演歌師の生き証人としてテレビや新聞で取り上げられ、再び注目された。そして昭和51年4月、「-これが基本演歌だ- 元祖・神長瞭月」のLP2枚組(45曲)をビクター音楽産業から発売した。瞭月87歳のときであった。

東芝から「演歌集 これが演歌だ」のレコード発売後にディレクターのチノさんは瞭月から未発表原稿20枚を預かった。しかしその詞を歌える歌手はそのレコード会社には当時いなかった。

しかし、未発表原稿の中の1曲は後に他のレコード会社から発売された。昭和48年3月、キングレコードから踊りに使う舞踊歌謡シリーズが発売され、その中に使われた。85歳からなくなるまでの毎年、このシリーズに瞭月の新作が採用された。そして生前に最後に発表されたのが「義経千本桜」であった。

昭和51年12月2日、瞭月はいつものように銀座へ散歩に行き帰ってから銭湯に行き食事を取って寝た。翌日、起きてこないので妻が起こしに行くと永遠の眠りについていた。88年の生涯であった。

続く <その3へ> <その1へ

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「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その1

<感想>
神長瞭月は単なる演歌師では終わらない多才な才能があった。演歌に初めてバイオリンを導入した演歌師だけではなく、作詞、作曲、音楽教室経営、特許取得なども行った。また反権力の歌ばかりを歌って稼ぐようなこともしなかった。

神長瞭月は余りにも多才すぎたためかいわゆる街頭での演歌師活動を長くは続けなかった。このためか添田唖蝉坊と比較して全国的にも、栃木県内でも余り有名ではない。しかし、われわれバイオリン演歌師としては一番尊敬している演歌師である。

昭和ロマンを楽しむ会の帝大生ゆめじ&青空ぴーまんも現役演歌師としてこの番組に出演して東京節(パイノパイノパイ)を歌い、またインタビューも受けている。

「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組

歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

東京節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)
明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。

番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。

CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その1>
今から100年前、明治時代に東京の下町で「松の声」(ああ夢の世や夢の世や・・)という歌がはやっていた。バイオリンを弾きながら歌っていたのは当時26歳の神長瞭月(本名:神長源二郎)という青年であった。今ではその名前を目にすることも聞くこともなくなった。神長瞭月とはどのような人物であったのだろうか。

彼は現在の歌謡曲のいしずえとなる「演歌」を育てた人。明治、大正、昭和を走り抜けてきた人である。

*明治時代
音楽の原点は故郷の栃木県塩谷郡塩谷町上平(うわたいら)で聴いて育った音であった。
神長家の次男として生まれ、明治36年、15歳のときに東京に出て働きながら勉強しようと上京し船乗りの養成学校へ通う。(農家の長男であれば地元に残ったであろうがここで彼の人生は大きく変わっていった)

神田の五十稲荷(ごとういなり)の縁日で欣舞節(きんぶぶし) を聴き自分でもなにか歌を作ろうと思って作ったのが田舎から上京した女学生が堕落していく様子を描いた「松の声」であった。

<神長瞭月談>
「本郷の真砂町(当時は真砂の原といって原っぱで夜店などが出ていた)で添田唖蝉坊が向こうの方で歌っていた。あんな歌はもう今の人は飽きているだろう、これじゃ今の人はついてこないだろうと思って反対側で歌った歌が「ああ夢の世や夢の世や・・」の松の声であった。」
真砂の原:現在の本郷4丁目あたり

演奏して見せて歌本を売る演歌師の街頭での営業方法は二通りあった。
1.縁日、祭りで人を集めて行う。「立ち」といった。
2.流し、遊郭、花町を流して歩く「流(りゅう)」といった。
この1.と2.を組み合わせて営業していた。

<神長瞭月談>
「当時は歌を広めるというのは自分の口からお客の耳へ歌を伝えるしか方法はなかった。レコードの代わりを全国を回っている演歌師が行った。(ラジオ、レコードなし)

松の声の時代にはまだ楽器がなかった。虚無僧には尺八があり、ごぜには三味線がある。楽器のない歌はおそらくつまらないものだろう。何かいい楽器はないだろうかと探して見つけたのがバイオリンであった。

バイオリンの一番安いのが2円で買えた。弓が70銭、松脂は10銭、つまり2円80銭あれば一そろいそろった。楽士に2時間ばかり教えてもらって後は家で練習してどうにかバイオリンを弾けるようになった。

バイオリンを弾けるようになって「残月一声」という歌を作った。この歌によって「バイオリン演歌」の誕生となった。
(明治40年11月、瞭月19歳の時であった。)

ここで演歌は二通りとなった。バイオリンを使う「バイオリン演歌」と添田君がやるような素で歌う「素歌(すうた)演歌」。演歌からバイオリンを取ると何が残るかというぐらいバイオリンと演歌は深い関係になってしまった。」

演歌はどれだけはやるか、歌本がどれだけ売れるかが実力のバロメータ
1.特定のスタイルにとらわれない、女性向け、子供向け、男性向け
2.受けるものをやる、社会風刺、事件を扱う、きわもの
3.人々に愛されなければ存続できない、大衆の流行歌として存在

バイオリンを使うようになり、人気が高まり新聞でも「流行書生節」として取り上げられ、その第一人者として神長瞭月の名前があげられた。

瞭月が導入したバイオリンは江戸時代の三味線伴奏から昭和に入ってからのギターへの橋渡しとしての役割を果たした。庶民が歌いたいことを歌うための工夫をした。

瞭月が導入したバイオリンで演歌はさらに人々に親しまれる存在となった。ここに現代へと続く大衆歌謡の道筋ができた。

*大正時代
明治時代の後半から大正にかけて映画とともに新たなメディアとして登場したのがレコードであった。

大正・明治時代には巷ではやっていた歌をレコードにした。歌い手は芸者や書生節を歌っていた演歌師であった(今はレコード・CDで歌を流行らせる)。

大正3年、瞭月が初めて演歌師としてレコードを吹き込んだ。録音は川崎にあった日本蓄音器商会、現在の日本コロムビアで行われた。

ところがレコードを吹き込んだ後、瞭月は街頭に出て歌うのを止めてしまった。神田明神のそばに独立音楽会という音楽教室を開いた。外部から講師を呼びバイオリン、ピアノ、マンドリン、女学生に人気のあった薩摩琵琶を教えた。最盛期には旧東京市街6箇所に教室を構えた。

浅草の人気喜劇に台本を書いたり、時には役者としても活躍した。

大正12年9月1日、関東大震災で東京は焼け野原となり音楽教室は閉鎖を余儀なくされた。このとき瞭月35歳であった。

続く <その2へ>  <その3へ

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町会の忘年会で昭和歌謡 バイオリン演歌


2013年12月23日(天皇誕生日)に江戸川区の某ホテルで自治会の忘年会が開催され、昭和ロマンを楽しむ会がカラオケ大会の前座として出演した。


 宴会場の入口から書生2名で美しき天然を演奏しながらテーブル席を回り舞台に到着した。皆さんはすでに酒も入っていてすぐに昭和歌謡の演奏を開始した。
 
東京節から始めてお富さんでは皆さん手拍子をして歌っていただき盛り上がった。女性にはやはり旅の夜風が人気で一緒に歌っていただいた。
 
宴会の席ではめったに演奏しないのでどうなるかと心配したが演芸としては盛り上がったが、演奏中にご祝儀を持って来て懐に入れてくれるので演奏はいい加減にしかできずに困ってしまった。
 
うれしいことにリクエストで「金色夜叉の唄」(貫一・お宮)を歌い、カラオケにない歌では「酋長の娘」を歌って、最後は「まっくろけ節」で締めた。

われわれが宴会場を退席するとすぐにカラオケで歌い始める人がいたのでカラオケ大会の前座としては合格点であったと思われた。

東日本大震災を経験して「地域の絆」・「地域力」が再確認された。当然のように行政サービス(公助)に頼るだけでなく、地域住民による助け合い(共助)が絶対必要である。町会・自治会・町内会の活動が活発化していくことが今後も望まれるが昔と比較してどの地域でも活動が少なくなってきたようである。
 
この町会の役員さんも「会員が歳をとって忘年会への参加者も以前に比べてずいぶん少なくなってしまった」といっていた。それでも年配者がほとんどであったが60名近くの男女が参加していた。



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演歌師「神長瞭月(かみながりょうげつ)」に関する資料

提供館(Library) 栃木県立図書館 (2110002)
管理番号(Control number)tr286
事例作成日(Creation date)2013年10月22日
登録日時(Registration date)2013年12月08日 11時00分
更新日時(Last update)   2013年12月08日 11時00分

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質問(Question)
栃木県塩谷町(当時の船生村)出身である、演歌師「神長瞭月(かみながりょうげつ)」に関する資料はあるか。

回答(Answer)
 演歌師「神長瞭月」が栃木県塩谷町(当時の船生村)出身であるという情報を元に、音楽史に関する資料と地域資料から調査を行いました。関連する記述があった資料は、以下のとおりです。

・『音楽五十年史』(堀内敬三/著  鱒書房  1943)
「第3章 明治後期の音楽」の「5、演歌は俗謡界の王座へ」(p240-250)に関連する記述があります。

・『日本音楽の歴史 』(吉川英史/著  創元社  1965)
「第7章 洋楽消化時代」の「1 演歌の唄本に現れた大正時代」(p416-422)に関連する記述があります。

・『流行歌明治大正史』(添田唖蝉坊/著  添田知道/著  刀水書房  1982)
神長瞭月/作詞・作曲の歌の歌詞が掲載されていました。
 「松の聲」(p238-239)
 「ハイカラ節」(p252-253)
 「殘月一聲」(p257-259)
 「スカラソング」(p259)
 「一かけ節」(p294-295)
※「流行歌について」の項等、文中の随所で、読売や書生節に関する記述が確認できましたが、神長瞭月に関する具体的な記述は記載がありませんでした。

・『日本音楽大事典』(平凡社  1989)
「演歌」の項で、演歌の発生や特長について述べられていますが、その中で、「(19)07年ころ神長瞭月によってヴァイオリンが伴奏にとり入れられる。」との記述が確認できました。(p580)

・『日本レコード文化史』(倉田喜弘/著  東京書籍  1992)
「3 視界ゼロ時代」の「2 はやり歌と政見レコード」の中の「書生節台頭」の項(p85-86)に記載がありました。

・『演歌師の生活』(添田知道/著  雄山閣出版  1994)
「底にうごめくものどち」の項に関連する記述があります。
 「松の声」(p103)
 「ヴァイオリン」(p109-111)

・『「はやり歌」の考古学  開国から戦後復興まで』(倉田喜弘/著  文藝春秋  2001)
「第3章 異文化との接触」の「6 ヴァイオリン演歌へ」(p138-144)に関連する記述があります。

・『ポピュラー音楽は誰が作るのか  音楽産業の政治学』 (生明俊雄/著  勁草書房  2004)
「第2章 レコード産業への音楽制作機能の集約」の「5 演歌師という存在」(p76-79)に関連する記述があります。

・『日本の作曲家  近現代音楽人名事典』(日外アソシエーツ株式会社/編  細川周平/監修  片山杜秀/監修  日外アソシエーツ  2008)
「神長瞭月」の項があり、生没、本名、生い立ちや業績についての記述が確認できました。(p201)

・『流行歌の誕生  「カチューシャの唄」とその時代』(永嶺重敏/著  吉川弘文館  2010)
「<歌う文化>と流行歌の近代」の項中に、関連する記述を確認できました(p136-138、174-176)。

以下の資料からは、記述を確認することができませんでした。
・『野州紳士録』(金澤源太郎/編  野州新聞社  1915)
・『下野名鑑』(三古谷雄/編  下野通信社  1925)
・『野州名鑑  昭和6年版』(遠藤健三郎/編  下野新聞社  1931)
・『音楽家人名事典』(日外アソシエーツ/編  日外アソシエーツ  1991)
・『栃木群馬縣人名鑑  昭和10年版』(小森貢/編  両毛県人社  1935)
・『栃木群馬縣人名鑑  昭和14年版』(小森貢/編  両毛県人社  1939)
・『栃木縣名士録  1952年版』(武石長雄/編  下野新聞社  1952)
・『明るい郷土を擔う人々  昭和31年度版』(下野新聞社/編  下野新聞社  1956)
 ※船生村、在京県人なし
・『栃木県第一線展望  人物篇』(鎌倉亀久馬/編  下野新聞社  1961)
・『レコード百科  歴史から鑑賞まで』(宮本英世/著   誠文堂新光社  1981)
・『栃木県歴史人物事典』(栃木県歴史人物事典編纂委員会/編集  下野新聞社  1995)
・『日本の演奏家  クラシック音楽の1400人』(日外アソシエーツ株式会社/編  日外アソシエーツ  2012)
回答プロセス(Answering process)
事前調査事項(Preliminary research)
NDC
大衆演芸  (779 9版)
参考資料(Reference materials)
キーワード(Keywords)
神長瞭月
演歌師
流行歌

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神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年):
これは大正12年(1923)に神長が発行した”流行名曲集”である。この年に関東大震災が起きた。発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭と書かれている。当時としては高価な立派な楽譜集である。いわゆる演歌師が街頭で売る歌本ではない。

演歌師 神長瞭月(1888~1976):
戦時歌謡でも活躍した神長瞭月:

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国立国会図書館検索:
神長//瞭月が著作者として関わる書誌は3冊ある。(神長//源二郎)
全国書誌番号 タイトル 役割  出版地 出版者 出版年 ページ数 大きさ
41003264   華巌の嵐   著 東京 華巌の嵐社 1906  47p 15cm
41003268   血涙集    著 東京 日清堂   1907    104p  16cm
40075063   不如帰    著 東京 讃美界雑誌社 1909  8p 24cm
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プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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