「敬老の集い」で書生節(バイオリン演歌) 2012



2012年9月16日(日)、敬老の日の記念行事として足立区花畑住区センターで「敬老の集い」が開催された。その芸能大会にバイオリン演歌師として出演した。


芸能大会は午前の部が利用者の方々の参加、午後からはプロの芸人出演とプログラム上はなっていた。会場はたくさんの参加者で一杯になっていた。

われわれは事務所で豪華なお昼のお弁当をいただいてからの出演であった。

午後からの2時間は高齢者に人気の「懐メロ歌謡ショー」であり、ゆめじは懐メロ歌手の前座としてバイオリン弾き語りで大正・昭和の歌を2回に分けて歌った。

バイオリンで弾き語りをする書生節のプロの歌手なんかはいないであろう。カラオケがすごく上手なおじさんやおばさんの方がどのバイオリン演歌師より歌が上手なようである。



他の出演者は日舞(佐渡おけさ、かっぽれ、おてもやん)と若者によるジャグリング・バルーンアートであった。そして最後は、炭坑節と東京音頭を懐メロ歌手が歌って参加者全員で輪になって踊って盛り上がった。

(ラストの東京音頭)


もちろん、午前の部でもすばらしい民謡や三味線演奏があり盛り上がっていた。

ゆめじが船頭小唄を歌ってその後、その替え歌を歌ったところ、男性が公演終了後にわざわざ楽屋へ訪ねてきてくれて戦時中にはやったという船頭小唄の替え歌を紙に書いて渡してくれた。

その替え歌は面白いというより、戦地にいるお父さんを思う子供の気持ちを歌ったものだった。教えてくれた男性も父のことを思いながら当時歌っていたのであろう。すばらしいので下記に記載する(2番、3番)。

利根の流れの お月さん  戦闘帽子で 父さんの
進む笑顔を 一目でも    うつしてください お月さん

こんな晩には 父さんが     いつも歌った 舟歌を
母さん二人で 元気よく      こいで流して 歌おうよ

唱歌「里の秋」で戦争に行ったお父さんのことを思いならがお母さんと一緒に栗の実を煮たり、食べたりしている小学生の気持ちと同じだなあと感じてしまった。

この替え歌に関して「ふろあ」さんから教えていただき、歌詞は「母子(おやこ)船頭唄」であることが分かった。「船頭小唄」のメロディで歌っても違和感がないのでよく知っている船頭小唄の節で替え歌として歌っていたと思われる。

「母 子(おやこ)船頭唄 (昭和13年)」  作詩:佐藤惣之助

3 もしもお月さん 鏡なら    戦闘帽子で 父さんが
  進む笑顔を ひと目でも   見せて下さい お月さん

4 こんな晩には 父さんが   いつも唄った 船唄を
  母さん二人で 元気よく   漕いで流して 唄おうよ

お父さんを歌った歌として、懐メロ歌手は昭和31年(1956)発売の「波止場だよ お父つぁん(美空ひばり)」を歌っていたがこれは隠れたヒット曲である。

1番に「めくら」という差別用語があるため、今はほとんど歌われずにカラオケでも2番と3番だけの歌詞で1番は出てこない。1番の歌詞は下記であるが「めくらでも」を「見えずとも」と言い換えていたようである。

「年はとっても めくら(盲)でも むかし鳴らしたマドロスさんにゃ」
「海は海は 海は恋しい ねぇ お父つぁん」

年老いたお父さんのことを歌った曲で中年を過ぎてあちこち障害が多くなると泣けてくるような曲である。歌わないのがもったいないいい曲だ。

懐メロ:ふたり酒、おひまなら来てね、波止場だよお父つぁん 、裏町酒場、河内酒、好きになった人、炭坑節、東京音頭等

書生節(バイオリン演歌):金色夜叉、コロッケの唄、東京節(パイノパイノパイ)、籠の鳥、東京ラプソディ、船頭小唄、のんき節、ラバウル小唄、酋長の娘、まっくろけ節等

昭和ロマンを楽しむ会 帝大生ゆめじ 書生節 バイオリン演歌 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 敬老の日 演芸会
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高等女学校生徒のバイオリン演奏(大正時代)

高等女学校生徒のバイオリン演奏(大正10年10月)


明治、大正時代の音楽専門学校の女学生がバイオリンを弾いている写真はたまに見かけるが、県立高等女学校の生徒が音楽会で着物姿でバイオリン合奏している写真は珍しいので紹介する。着物は振袖で演奏しにくそうにみえる。

県立高等女学校(5年制)の生徒であるから年齢は普通12歳から17歳(高2相当)までであるが高学年の生徒だと思われる。大正10年10月の第2回音楽大会合奏と記載してあることからそれ以降も定期的に音楽大会が行われていたのであろう。

通学の制服はセーラー服だと思われるので音楽会のために振袖を着ているのであろう。

県立の女学校でも大正時代には音楽大会でバイオリン演奏があったとは正直驚いた。われわれの時代の県立高校では部活動としてはブラスバンド程度しかなく、他は文化祭などで個人的にギターを弾く程度であった。もちろんお金持ちの子女が行くような私立高校には弦楽部があったような気がする。

ずいぶん後になって、県立高校にも管弦楽部ができてバイオリン、チェロなどが加わって学校でクラシック演奏したりするようになったようである。

バイオリン演奏 合奏 着物 音楽会 丸亀高等女学校 丸亀高校

高原列車は行く 岡本敦郎 昭和29年


高原列車は行く

昭和29年(1954)に発売された「高原列車は行く」は爆発的ヒットとなり岡本敦郎の代表曲となった。

岡本敦郎は昔はたくさんいた音楽学校出身の歌手である(武蔵野音楽学校声楽科卒業)。

高原列車のモデルは沼尻軽便鉄道だそうである。昭和43年(1968)に廃止されるまで、沼尻、中ノ沢などの温泉への足としても利用された。沼尻鉄道は、鉱山から鉱石を運び出すトロッコ風の「軽便鉄道」のことで、沿線には裏磐梯や白樺が立ち並ぶ風景があった。


ところが古関裕而は、ヨーロッパの高原列車のイメージで軽快な曲として作曲した。

「高原列車は行く」の歌碑が猪苗代・沼尻温泉にある。

              「高原列車は行く」     書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会

作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而、歌手:岡本敦郎  Kogen ressha wa iku 

汽車の窓から ハンケチ振れば
牧場の乙女が 花束なげる
明るい青空 白樺林
山越え谷越え はるばると
ララヽヽ  ラヽヽヽヽヽヽヽ
高原列車は ララヽヽヽ行くよ

みどりの谷間に 山百合ゆれて
歌声ひびくよ 観光バスよ
君らの泊まりも 温泉の宿か
山越え谷越え はるばると
ララヽヽ  ラヽヽヽヽヽヽヽ

高原列車は ララヽヽヽ行くよ
峠を越えれば 夢みるような
五色のみずうみ とび交う小鳥
汽笛も二人の 幸せうたう
山越え谷越え はるばると
ララヽヽ  ラヽヽヽヽヽヽヽ
高原列車は ララヽヽヽ行くよ 

「汽車の窓から ハンケチ振れば 牧場の乙女が 花束なげる」への疑問
どう考えても「ハンケチ振れば」ではなく、観光客がチョコレートやガムを投げたか、小銭(チップ)を投げたのではないかとずっと思っていた。外国船が着いたときに桟橋に集まった子供たちに外国の乗客たちが小さな人形などのおもちゃやお菓子を投げてくれたことを思い出してしまう。

作詞の丘灯至夫は「高原列車は行く」のほかに「高校三年生」や「いつでも夢を」などの大ヒット曲がある。

また、「高原列車は行く」ではなく、「霊柩車はいくよ」という面白い歌も作詞している。なるほど青春時代は高原列車で人生の最後は霊柩車なのだろう。あの世という場所はすばらしいところらしい、見物に行って帰ってきた人がいないぐらいだから。

   「霊柩車はいくよ」(作詞:丘灯至夫、作曲:小林亜星、歌:エノケソ(えのけそ)) 
いろいろ お世話になりました なにかと お手数かけました 
これから行きます 参ります 
ああ あの世というところ 帰ってきた人 いないとこ 
さよなら さよなら さようなら 
霊柩車はゆくよ まいります 霊柩車はゆくよ ゆくよ

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プロフィール

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Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

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昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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