2010/08/31

大江しげる(元東京演芸協会)は昭和の末期まで活動していた時事演歌の演歌師、寄席芸人で「のんき節」替歌が得意だった。昭和27年から玉川スミとコンビを組んだこともある。また、三遊亭小円朝の母方の祖父が大江しげるとのことである。
もちろん、書生節の「ああ踏切番」なんかも歌っていた。桜井さんたちと比較するとバイオリンは上手ではなかった。歌の間に効果的に音を入れるという”鳴り物入り”であった。
下ネタから政治ネタまでいろいろなのんき節を歌っていたが、政権党にも野党にも厳しく皮肉っていた。 今考えると、社会党の末路を予言していた。
社会党にはじめて 女の委員長 土井さんに期待が集まります
たか子さんは未だに独身ですが 立派な党員生めますか
ハハ のんきだね
「演歌 街頭版」(大江しげる編、添田知道監修)より船橋徹さんの寄稿
「命ある限り演歌を」 船村 徹
いや驚きですね、70歳を超えたご高齢で、未だに”演歌”を歌い続ける大江先輩の存在はーーー。あえて先輩と言わして頂いたのは、私自身が、それこそ大江さんの先輩筋にあたる、のんき節の故石田一松先生(元衆議院議員)のヒキで、音楽学校在学中に銀座で演歌師(バイ)をさせてもらっていたからなんです。
時の権力の横暴に抗し、演歌を持って糾弾するのではなく、歌に託して大衆の喚起を促したのが、”演歌”の起源ですが、大江さんは今もその精神(こころ)をうしなっていないーーどころか、折にふれ時に応じて風刺小唄”のんき節”を創作し、歌い続けていらっしゃる。この反骨は今どき大変貴重なものだ、と尊敬している私も一人です。
”無形文化財”とも言うべきこの大江先輩の存在を、同好の志のお力で長く後世に伝えて頂ければ、後輩の一人としてこんな嬉しいことはありません。
三遊亭小圓朝(小円朝)談話
親父(三代目三遊亭円之助)が土日になると後楽園に野球を見に連れてってくれるんです。ーーー中略ーーー
ご承知の通り父は噺家ですが、母も芸人の家庭なんです。祖父母が「大江しげる・笙子」という漫才をやっていました。漫才をやめてからも祖母はお囃子をやっていたんです。だからそういう家族なんですね。親戚が集まるとにぎやかで、噺家のあたしが黙っちゃう。
「石動三六日記 寄席編」より
おそらく1976年だと思うんですけどね。初めて浅草の松竹演芸場に行きました。多分、当時は落語より色物の方が面白かったんでしょう。で、色物専門のこの寄席に来たわけですが、このときの上席は漫談家を中心にした東京演芸協会というグループの特別興行(今でも東洋館の中席がそうですが)。手元にあるチラシによると、出演者はアダチ龍光(奇術)・黒田幸子とその一行(民謡)・筑波僑一郎と剣竜会(殺陣)・悠玄亭玉介(花街うらばなし)・大江しげる(時事演歌)・三遊亭歌夫(漫談)・鏡味小仙社中(太神楽曲芸)・サムライ日本(殺陣とお笑い)・林家一楽(紙切り)・松旭斎小天華(奇術)、これに桜井長一郎・宮尾たか志・牧伸二・小野栄一・早野凡平・佐々木つとむという当時の売れっ子が交互出演。パッとしないメンバーでしたね。
大江しげるという老芸人だね。明治時代の書生姿、袴に高下駄でバイオリン弾きながらの時事演歌。「のんき節」を唄ってました。
3LPBOX/ 添田知道・大江しげる「歌でつづる鉄道百年」
株式会社 イメージファクトリィ 効果音
★ NO-706「メインストリートのならず者・大道芸NO-2」 (0323)
14.物産アメ売り。明治~昭和初期 (0323)
15.バイオリン演歌、大江しげる。パイノパイノパイ (0323)
16.バイオリン演歌、大江しげる。船頭小唄 (0323)
17.バイオリン演歌、大江しげる。郭の歌 (0323)
漫才師 大江茂(しげる):前芸名:砂川捨夫、後に凸凹ボップ・ホープのボップ
玉川 スミ:昭和27年 大江しげるとコンビを組み四年ぶりに有楽町ビデオホールの舞台に立つ玉川一郎先生の勧めで芸名を「玉川一恵」とする
大江 笙子しょうこ ・本 名 松沢 はつ子 ・生没年 1909年11月28日~1984年9月23日 ・出身地 東京
大江じげる おおえ しげる ・本 名 松沢 茂 ・生没年 1912年11月9日~1990年代? ・出身地 佐賀県
茂は佐賀の田舎に生まれたが、芸人を志し、若くして家を飛び出す。『日本演芸家名鑑』によると、無声映画のヴァイオリン弾き、さらにヴァイオリン演歌を演じるようになり、九州でテキ屋の身内に入り、演歌師生活を送る。1932年、砂川捨丸に入門。砂川捨夫と名乗る。翌年上京し、浅草帝京座に初出演。その後は師匠捨丸の一座に出入りして全国を巡演。
1930年代に二人は出会い、結婚。茂は笙子の婿となって、「松沢茂」となる。その後、夫婦漫才を組んでやっていたようだが、1936年に応召を受け、以来数年に渡り、帰国・再出兵を繰り返す。このせいで、大江笙子は貧苦に悩まされる事となった。1944年頃、息子が誕生している。この子は後年、敏トシという音楽家になった。代表作は『花のメルヘン』。
またこの前後で娘にも恵まれている。この娘は三遊亭円之助に嫁ぎ、三児の母親となった。この一人が先日物故した四代目三遊亭小円朝である。
茂の戦後: 何とか復員した茂は大道寺春之助とコンビを組んで、「凸凹ボップ・ホープ」として漫才をやっていたが、1955年頃解散した。因みに内海桂子と大江笙子のコンビを引き裂いたのは、大江茂であり、その代理として内海好江をあっせんしたのも、大江茂であった。
但し、この斡旋や後の待遇で桂子と茂は対立し、内海桂子の自伝『転んだら起きりゃいいのさ』の中でボロカスに批判されている。
1955年、漫才研究会設立に際し、茂は幹事となる。名簿を見ると、凸凹ボップ・ホープで登録されているが、幹事告知の書類ではなぜか大江茂名義になっている。
漫才コンビ解散後は古株のバイオリン演歌へと戻り、松竹演芸場などの浅草の舞台へ出演するほか、池袋を拠点に流しもやった。この頃、『演歌』という本を出版しているそうな。
貴重な時事漫談、バイオリン演歌の継承者として少しずつ取り上げられるようになったが、1970年代に大江笙子と離婚している。長らく別居状態にあったそうで、その末の離婚だったそうである。
晩年は吉村平吉の「ふきよせの会」や落語会の色物として出演。バイオリン演歌の方では相当鳴らしたようで、貴重な実演者であった。平成元年頃まで健在が確認できる。
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