2010/02/04


桜井敏雄(1909~1996)は石田一松の弟子で、同じく弟子であった田浦美津路の弟弟子にあたる。田浦美津路もレコードを残しているが桜井もレコード、CDを多数残している。
桜井敏雄は本当の演歌師、いわゆる寅さんと同じテキヤに属する職業としての最後の演歌師であった。彼は本当に、お祭りや大道で書生節をバイオリンで演奏しながら歌っていた。
それ以降の演歌師はアマチュアか芸人出身の演歌師たちである。
ゆめじは桜井さんをすぐ近くで直接みたことがあるが、すごく姿勢のいい老人であった。演歌を歌うというより、昔(戦前)のことを話すほうが多かったが実際に経験しているためか説得力があった。歌は、古いのんき節や「ああわからない」、金色夜叉などを歌った記憶がある。
その時も、のんき節は師匠である石田一松ではなく、古い添田唖蝉坊ののんき節しか歌わなかった。「学校の先生はえらいもんじゃそうな」というやつである。
公園のテント(控え室)の中で待機していたときも、すすめられてもお弁当には手をつけず、「終わってから食べます」といった言葉が記憶に残っている。
芸や仕事に対する真摯な態度を感じて昔の方はすごいなと思った。
桜井敏雄はまた東京の「大道芸研究会」に属していた。大道芸研究会には桜井敏雄の指導を受けたバイオリン演歌師がいて現在でもその伝統をついでバイオリン演歌師たちが活躍している。
当時の先輩たちの話では、あの桜井さんでも大道での人集めには苦戦していてがまの油売りやバナナの叩き売りのほうがはるかに集客力があったそうである。もうバイオリン演歌(書生節は消えつつあったのであろう。
「野毛大道芸の歴史」より抜粋
野毛には成田山の別院があり、その境内を中心に市が立ち、演歌師や放浪芸人が来た。つまり大正時代から昭和初期にかけて野毛では大道芸が出ていたという。
1996年に亡くなった最後の演歌師と呼ばれた桜井敏雄さんは、大正演歌師の石田石松の愛弟子だったが、この野毛の境内で、ヴァイオリン演歌をやっていたと生前よく語っていた。野毛大道芸に出演することにこだわっていらっしゃった。このような歴史背景はあったものの、戦後は大道芸は行われていなかった。
バイオリン演歌 書生節 大正演歌 演歌師