2006/12/09
官立第一高等学校の学生生活


昭和3年4月から5月にかけて「ある日の学園」と題された在京の主要大学、高等学校(旧制)のキャンパスの雰囲気、学生気質を紹介するレポートが東京朝日新聞に掲載された。
(誰か昭和を想わざる ~流行歌と歴史のサイト~ から転載)
この頃には3、4年浪人しても絶対に一高へ入るという豪傑も少なくなったそうだ。また、英雄主義ではなく個人主義的傾向も見られるとしている。まだ一高は現在の本郷キャンパス弥生地区にあった。当時は周囲一帯は「向ヶ丘」と呼ばれ、寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」の一節にも「向ヶ丘にそそり立つ 五寮の健児意気高し」と歌われている。
一高の「正門主義」はよく知られており、いつ如何なる時でも構内への出入りは正門に限るとの信条が貫かれていた。学校と寄宿舎が一体になった全寮制で、無断外泊には厳しく、「不時点検」という制度があった。また、深夜を揺るがすストームも絶えなかったらしい。(写真は大正時代の寮3階の寝室)
30年以上前の九州工場の寮にもストームというのがあった。真夜中に先輩がお湯を入れたやかんに焼酎一升瓶、茶碗を持って部屋のドアを蹴って乱入してきた。無理やり起こして焼酎のお湯割をのませて騒いでこちらは訳が分からないうちに去って行った。懐かしい思い出である。
<記事>
議論は熱を帯びている。塩せんべい、団子、焼いも-それ等は、もうあらかた食い散らかされてしまって、文科二年の男が小使室から半ば喧嘩腰で略奪してきた白砂糖とヤカンの水で製造した砂糖水をがぶがぶやっている。一高名物のコンパの献立は十年一日の如く変化がない。けだしこれはわが一高生の味覚神経の停滞を意味しない。一高生の懐具合が概して十年一日の如く豊かでないのを示しているのだ。
「然らばだ、然らば最後に残る問題は向陵精神とは果して何ぞやということになる…」 「いわく…友情」 眼鏡をきらりと光らせて明快に片づける。 「いい得て妙だね、然し要するに妙であるにとどまる」 「いわく…いい難しさ」 「そうだ、結局それなんだ、いわく一高精神という。然しこの精神は、こう然の気みたいに、とりとめもないものじゃない。我々はしっかりそれをつかんでいる。数字的にといってもよいほどの正確さでキャッチしている」 「然し、その数字が複雑すぎるというんだろう」
「向陵精神は、アインスタインの方程式の如きものなり…あー疲れた。これを結論にしてカラバンでも歌おうよ…」
昭和八年度には一高は駒場へ移転することになっている。木造の粗末な校舎や寮から鉄筋コンクリートの建築に移るのだ。そうなれば音に名高い一高の校風にもあるエポックがくるにきまっている。
三年も四年も受験生活を続けて一高をねらう篤志家が少くなったので、一高生の平均年齢は昔より若くなった。そのせいか酒を飲む者も少なくなったし、いわゆる「鉄拳制裁(ファーストロー)」も跡を絶った。寮の規則として美髪は許されない。というのは長いのは差支ないが手入をしてはいけないというのだ。この間の区別が極めてデリケートである。「理科三年の大森の頭は美髪か長髪か」こんな問題が寮委員の間に議論される。ふさふさと頭髪を長くした一高生も多くなった。
今もって破帽損衣をてらう可愛い風は抜けないが英雄主義が個人主義となり蛮風がジェントルマン風に化しつつあることだけは看取される。
向陵:一高は地名の向ヶ丘に因んで「向陵」と称され、代名詞に用いられた。向陵碑は一高の駒場移転に際して昭和10年2月1日に建立された。
第十ニ回紀念祭寮歌 《 嗚呼玉杯に花うけて 》
嗚呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし
治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て
向ヶ丘にそゝりたつ 五寮の健児意気高し