帝国大学&官立大学、旧制大学とは(帝国大学令、大学令)

旧制大学とは、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学を一般的に呼んでいる。ただし、学習院大学は宮内省の管轄であったため、例外的に旧制大学として位置づけられている。

なお、日本女子大学校(現日本女子大学)、東京女子大学、大阪理工科大学(現近畿大学)は大学を呼称しているが、大学令による旧制大学ではない。単なる専門学校であった。
また、国立大学という呼び名はなく、官立大学であった。40年前まではまだ”(おれらの税金で勉強している)官立大学生のくせに!”というおじさんがたくさんいた。

1872年、学制に基づいて東校(旧大学東校)を第一大学区医学校と改称、大阪医学校を第四大学区医学校に、長崎医学校を第六大学区医学校に改称。 1873年学制が改正される(第三大学区と第四大学区が統合、以下番号繰り上がり)。さらに1874年に第一大学区医学校を東京医学校に改称。 1877年、東京医学校が東京開成学校(大学南校→南校→第一大学区中学校→開成学校)と合併し、東京大学(後に帝国大学へと改変)に。またこの年、工学寮と工部美術学校を併せて工部大学校が成る。

帝国大学令(1886年)
帝国大学(後に東京帝国大学と名称を変更・東京大学)
京都帝国大学(京都大学)、東北帝国大学(東北大学)、九州帝国大学(九州大学)
北海道帝国大学(北海道大学)、京城帝国大学(ソウル大学)、台北帝国大学(台湾大学)
大阪帝国大学(大阪大学)、名古屋帝国大学(名古屋大学)

帝国大学はどこに入学してもすべて(東京帝大と)同じ帝大帽、帽章、制服のボタンまで同じであるのでちょっと得した気分になれた。また、皆同じ同窓会、学士会に入ることができる。学士会は明治19年(1886年)に創立された。

「紫蘭の部屋」の紫蘭さんによると大阪帝国大学医学部の付属医学専門学校の学生も帝大帽をかぶって通学していたとのことである。あの鉄腕アトムの手塚治虫は十三の北野中学から旧制浪速高校を受験して失敗、大阪帝国大学医学部付属医学専門部に入学した。宝塚から帝大帽をかぶって通学していたのであろう。

大学令
1918年に大学令が出て初めて公官私立大学の設置が認められた。それまでは帝大以外に大学はなかったが、専門学校が勝手に大学の呼称を使用して混乱していた。
戦前に設立された大学
1915年 府立大阪医科大学(1919年大阪医科大学として国へ移管)
1919年 大阪医科大学(1931年大阪帝国大学へ昇格)
1920年 東京商科大学(1944東京産業大学に改称,1947に再び東京商科大学,1949年一橋大学に改称),県立愛知医科大学(1931年名古屋医科大学として国へ移管)、慶應義塾大学、早稲田大学、同志社大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大学
1921年 東京慈恵会医科大学、京都府立医科大学
1922年 新潟医科大学(新潟大学)、岡山医科大学(岡山大学)、県立熊本医科大学(1929年熊本医科大学として国へ移管)、旅順工科大学(終戦時廃校)、龍谷大学、大谷大学、専修大学、立教大学、立命館大学、関西大学、東洋協会大学(拓殖大学)
1923年 千葉医科大学(千葉大学)、長崎医科大学(長崎大学)、金沢医科大学(金沢大学)
1924年 立正大学
1925年 駒澤大学、東京農業大学
1926年 日本医科大学、高野山大学、大正大学
1928年 東洋大学、上智大学、大阪商科大学(大阪市立大学)
1929年 神戸商業大学(神戸経済大学を経て神戸大学)、東京工業大学、東京文理科大学(東京教育大学を経て筑波大学)、広島文理科大学(広島大学)、大阪工業大学(1933年大阪帝国大学に吸収合併)、熊本医科大学(熊本大学)
1931年 名古屋医科大学(1939年名古屋帝国大学へ昇格)
1932年 関西学院大学
1940年 神宮皇學館大学(皇學館大学、戦後一時中絶)

戦中に設立された大学
1942年 興亜工業大学(現千葉工業大学)

戦後の旧制大学令によって設立された大学
玉川大学、東海大学、愛知大学、私立大阪医科大学、その他多数の専門学校がある。
このほかに官立大学として学習院があった。京城帝国大学、台北帝国大学、旅順工科大学は外地の大学である。

バイオリン演歌/書生節/大道芸:http://www.geocities.jp/teds3d/retrozone/retro01.html

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竹久夢二の恋人は何人? <夢二の恋人を追って>





夢二の恋人を追ってという企画展が竹久夢二美術館(文京区)で開催されているので大正を懐かしむ帝大生ゆめじは仲間と見に行った。場所はちょうど元帝国大学医学部の裏側である。平成の時代に大正ロマンのような女性を見てみたい!

夢二が活躍した大正、昭和初期は近代的な生活様式が定着し始め、社会や文化面で女性の活躍が目立ち始めた頃である。夢二はその当時のファッションや女性風俗を描いた絵を沢山残している。夢二式美人画には恋人をモデルにしたものが多いらしい。

夢二は恋多き人生を送ったことで知られている(単なる色魔?)。妻を含め同棲した愛人が3名(岸たまき、笠井彦乃、お葉 )。これに加えて、旅の恋(行きずりの恋、かりそめの恋)が長谷川賢、山田順子、芳賀テフ、花奴等多数。山田順子と夢二が一緒に仲良く旅行に行ったため、お葉は夢二のもとを去っていったと解説していた。

彼にとって創作と恋愛は切っても切れぬものであったということは、絵を描くたびに体を張っていたのか。

現代の帝大医学生であれば、B型肝炎ワクチンの予防接種と、C型肝炎の抗体検査、エイズ抗体の検査等を定期的に実施して注意深く職務を遂行しているであろう。なお、夢二は療養所で肺病により死亡した(50歳)。

でも3ヶ月しか交際しなかった女性の写真と名前が展示されていたが、プライバシーはどうなっているのだろうか。彼女は全く別の人生を歩んで幸せに人生を終えたはずなのにーーー、有名人と付き合った宿命であろうか。

旅の恋(山田順子)
何でも鑑定団での夢二と山田順子の手紙
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60158829.html
徳田秋声が『仮装人物』で描いた本荘(本荘出身の女流作家「山田順子(ゆきこ)」)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/50383614.html

前に行ったときに展示してあったバイオリンとお嬢様の絵は今回は展示されてなかったのが残念であった。

次回の展示は宵待ち草等のセノオ楽譜の表紙等、音楽デザイン帖である。

「大正ロマンを飾った女たち」展 ~時代を映す女性と、夢二の恋人を追って~
会期: 2006年7月1日(土)~9月24日(日)  開館時間: 午前10時~午後5時
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/index.html

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tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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