昭和初期の専門学校生の服装 & 徴兵猶予停止

81歳ブログ「紫蘭の部屋」に昭和の戦争中(S16-18頃)の学生生活(服装等)の記載があったので許可を得て転載する。紫蘭さんは官立大阪外国語学校(現大阪外国語大学)に入学し、同級生に司馬遼太郎、一年先輩に陳舜臣がいた。

大阪では戦争中でもまだまだバンカラ学生(着物、下駄)の学生がいたようである。紫蘭氏も腰手ぬぐいに下駄で電車通学していたと書いている。私はほとんどの学生がすでに学生ズボンにゲートルを巻いていると思っていたが実際は違っていた。

昭和18年の12月には文科系の学生(20歳以上)に対する徴兵猶予が停止され、10月21日、明治神宮外苑競技場で文部省主宰の出陣学徒壮行会が行われた。しかし、実際には私の知人は昭和16年12月に大学の卒業を3ヶ月繰上げてすでに学徒出陣している。一所懸命に社会で働いている若者は徴兵されるのに高等教育を受けている一部の金持ち、特権階級だけが徴兵を逃れているとの不平不満もあったのであろう。
多くの若者が犠牲になったことは残念であるが、日本の国は帝国憲法下でも若者を平等に扱ったということか。
父は高等専門学校を卒業して4月に銀行に就職してその12月に徴兵されて終戦まで除隊にはならなかった。たった8ヶ月の新人銀行員であった。

帝大生は教養で学徒出陣した文系の教授から”お前ら理系学生は学徒出陣しなかったんだぞ、死ぬ気で勉強しろ!”と厳しくいわれた。”僕ら関係ないのにーー”と思っていたが今となっては勉強したくともできずに死んでいった友を思っての発言だと理解している。学部にいってからは先生たちの戦争体験を聞くことは全くなかった。

そういえば、工学部の英語の得意なやり手教授は昭和18年9月に帝大を卒業し、陸軍XX技術研究所へ入ったそうだ。9月卒業だから繰上げ卒業だと思うが、徴兵されたのか、それとも就職したのかは今となっては分からない。航空燃料の研究をしていたとのうわさであったが、そんなことを聞ける身分でもなかった。

『 学生時代の司馬遼太郎
彼(司馬遼太郎)は18歳で、旧制弘前高校の受験に失敗し、当時上本町の8丁目にあった大阪外語の蒙古語科に入学してきた。特別の理由はなくて、単に数学の試験がないというだけが学校選択の理由のようであった。

入学後、しばらく司馬サンは下駄ばきで登校していた。剛毅木訥を仁とした当時の若者同様、自分が入学に失敗した旧制高校の弊衣破帽のバンカラに憧れていたのであろうか。いつものように登校した彼が友達の日根野谷、黒木両君と下駄履きで階段を降りてきた所を、運悪く生徒監の金子教授(後、学長)に見つかってしまった。黒木君とともに大ビンタを食らった福田君の黒ぶちの大きな眼鏡が、セメントの階段に落ちて壊れたのを日根野谷君が覚えている。司馬サンは外見の優しさとは違う豪快さへの憧れを内部に秘めていたに違いない。

私(紫蘭氏)も当時高校生のバンカラに憧れていて、手ぬぐいを腰にぶら下げ、帽子は阿弥陀にかぶり、焼き杉の下駄を履いて登校していた。電車に乗ると足がふらつくのが困ったが、下校時には難波に出るためによくあの辺りを歩いて下校した。生国魂神社の横から裏通りを抜けて、お寺の多い寺町を下るだらだら坂であった。敷き詰めた石畳の上をカランコロンと下駄の音を響かせながら、人気のない坂道を降りて行くのはとても気持ちがよかった。ふとあるお寺に入ってみると、当時熱読していた谷崎潤一郎の「春琴抄」のお琴の墓がひっそりと建っていたりした。』

2007年10月に大阪外国語大学は 大阪大学と統合のうえ大阪大学外国語学部となる見込みである。
大阪外語学校へ入学した旧制高校失敗組は、みんな語学を毛嫌いして文学や哲学の本ばかり読んでいたらしい。母校が帝国大学の外国語学部になってしまうことをそういう先輩たちはどう思っているであろうか。
    81歳ブログ「紫蘭の部屋」:http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb

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帝大生 太宰治 『おしゃれ童子』にみるハイカラ書生

山手線などで弓道か剣道の帰りと思われる筒袖の着物に袴、足にはソックスと運動靴の学生をたまにみかける。帝大生も急ぐときには袴に靴で移動することがあるがちょっと恥ずかしいが、下駄より運動性は非常にいいので好きだし便利である。

ハイカラ女学生は絣の着物に袴、編み上げの靴というのが定番であり、現在も卒業式でよく見られる。今まで絣の着物に袴、学帽に高下駄のバンカラ姿ばかりを強調してきたが、書生の中には少数だがハイカラなやつもいた。

その書生が太宰治(1909-1948)である。
太宰治は津軽屈指の大地主の六男として生まれ、大正12年に 県立青森中学校に入学、昭和2年に第一高等学校受験に失敗して弘前高校に入学。昭和5年に念願の東京帝国大学仏文科へ入学した(東京帝大仏文科中退)。
写真:太宰治記念館【斜陽館】( 生家)、 弘前高校時代の書生姿

おしゃれな学生、太宰自身のことを書いたと思われる『おしゃれ童子』に大正末期から昭和初期の本人の服装を詳細に書いているので紹介する。(「婦人画報」1939(昭和14)年11月)

「誰にも知られぬ、このような侘(わ)びしいおしゃれは、年一年と工夫に富み、村の小学校を卒業して馬車にゆられ汽車に乗り十里はなれた県庁所在地の小都会へ、中学校の入学試験を受けるために出掛けたときの、そのときの少年の服装は、あわれに珍妙なものでありました。白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。しかも、こんどのシャツには蝶々の翅(はね)のような大きい襟(えり)がついていて、その襟を、夏の開襟(かいきん)シャツの襟を背広の上衣の襟の外側に出してかぶせているのと、そっくり同じ様式で、着物の襟の外側にひっぱり出し、着物の襟に覆いかぶせているのです。なんだか、よだれ掛けのようにも見えます。でも、少年は悲しく緊張して、その風俗が、そっくり貴公子のように見えるだろうと思っていたのです。久留米絣(くるめがすり)に、白っぽい縞(しま)の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆえ、少年の身のまわり一切は、やさしい嫂(あによめ)の心づくしでした。
   ーー中略ーー
 マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるように、あやうく羽織って、そうしてそれを小粋(こいき)な業だと信じていました。
どこから、そんなことを覚えたのでしょう。おしゃれの本能というものは、手本がなくても、おのずから発明するものかも知れません。」

また、弘前高校での服装については下記の様な記載がある。
「紺の腹掛、唐桟の単衣に角帯、麻裏草履、そのような服装をしていながら、白線の制帽をかぶって、まちを歩いたのは、一たい、どういう美学が教えた業でしょう。そんな異様の風俗のものは、どんな芝居にだって出て来ません。たしかに少年は、やけくそになっているとしか思えません。カシミヤの白手袋を、再び用いました。唐桟、角帯、紺の腹掛、白線の制帽、白手袋、もはや収拾つかないごたごたの満艦飾(まんかんしょく)です。そんな不思議な時代が、人間一生のあいだに、一時は在るものではないでしょうか。」
太宰は女との心中多数、薬物中毒の小説家で知られており、末は博士か大臣かの一般的な帝大生とは全く違った道を歩んでいった。

Webを検索すると書生姿(シャツ、着物、袴)に靴で外出する方も少数であるがいらっしゃるようである。現代では袴に靴は非常にまれ、異常と思われるかも知らないが、昔の学生ではまれではなかったらしい。着物と袴に靴で大東京を普通に歩き回る日はまたくるのであろうか。いつかはやってみたい。

参考:
岐阜県立武義中学(旧制)を昭和8年の3月に卒業した方の講演内容。
「小学校の卒業式はねぇ、全部着物、袴です。武義中に入りました。男ばかりで、中学へ来るのに入学式からみんな着物に袴、入りました時に入学式の後にすぐ靴を注文しまして全員履物は靴。次の日からは着物に袴、靴履いて学校に行った、嘘みたいだね。」

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Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
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昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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