高円寺大道芸大会でバイオリン演歌 今年も参加! 2005



2005年27日、28日に第6回大道芸大会に参加した。阿波踊り見物客が通るせまいあづま通り商店街にテーブルといすを置いて屋台が出て、ところどころで音楽演奏、ジャグリング、舞踏が行われる。屋台の呼び込みも若い子が威勢良く声をかけてきてさすが、祭りだと気持ちがいい。

やっぱり祭はいいな!浴衣、半天などの日本の着物を着ている人が多い(こんな時しか着なくなってしまった)。浴衣でない夏の着物を着てぞうりの男性や女性もいる。子供の頃かぶってみたかったパナマ帽をかぶっているおじさんもちらほらいた。暑いのにパナマ帽に羽織、袴で提灯を持った町内の役員が山車の前と後ろについて歩いていたのを思い出した。

今年は書生節保存会の名前で演歌師の森田銀月と帝大生の黎明が参加し、自主制作CDを販売した。われわれの営業場所はシャッターの閉まった古い店舗の前でシャッターがさびて汚れているのが大正演歌にふさわしくてよい。

金色夜叉の”熱海の海岸、貫一お宮泣き別れの場面”の絵を譜面台に立てて絵看板とした。これを見ていろんな人が寄ってきて友達に説明したり、なぜ女を蹴っているのとか聞いてきたりする。思ったよりなかなか宣伝になるパネルである。”去年と着物が違うね。今年も見に来たよ”と声をかけてくださったありがたい方もいた。

荒城の月のリクエストが一晩に2回もあったのでびっくりした。なぜ、お祭の日にこの曲なのか、バイオリンで聞いてみたいのか理由は不明である。いくらバイオリンだからGmのほうが演奏しやすいといっても、この曲はあまりにも有名でありAmでないと納得しないだろう(ミミラシドシラ)。今までもAmでやってきた。銀月が歌と同じキーで演奏して歌い、私がA線とE線で一オクターブ上を演奏するのが定番である。

書生節と書いてあってもなんのことが分からない若者がほとんどだが、バイオリンを演奏しながら歌って実演しているので理解はできているようだ。
書生節:明治六年(1873)ごろからはやりだした流行歌。「書生書生と軽蔑するな、大臣参議もみな書生」等。

書生節以外に、ジャズ演奏、コントラバスとサックス、ジャグリング、人間ジュークボックス(200円渡すと箱の中にいる人がトランペット演奏するが、見ていても暑そう)、舞踏、辻落語(ビールのケースを並べた上で落語)、ハーモニカ演奏等があった。

高円寺駅で帰りの切符を買うのに長蛇の列でやっと切符を手に入れたが、改札を通ってもホームに上がるまでかなり時間を要した。帰るのが一番大変な高円寺阿波踊りである。

バイオリン演歌 書生節 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 帝大生ゆめじ

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大阪中央公会堂(大正7年、1918年)で皿回し!




大阪の中之島公園にある中央公会堂はアーチ、赤煉瓦、青銅屋根でネオ・ルネッサンス様式の建築である。大阪北浜の株式仲買商・岩本栄之助氏が私財100万円を大阪市に寄贈して建設された。

大正ロマン漂う華麗な外観だけでなく、内部の壁、天井もすばらしい。ライトアップされた夜景もお勧めである。大正7年には東京丸の内に東京海上ビルも完成している。東京海上ビルは東京節の歌詞に”海上ビルディング、東京駅”として出てくる。

館内には、約1,700名を収容できる大集会室をはじめ、集会室、会議室があり、現在も文化活動や社会活動の拠点として利用されている。改修後、何回もダンスパーティが開かれていたが、正装で参加する必要があるとかでダンスはできても行く気にもならなかった。

3階の特別室は、創建当時は貴賓室として使われたそうだ(天井画は天地開闢(かいびゃく))。
数年前、そこの特別室である企画展があり、こういうところでこそ誰もやっていない皿回しをやろうとひそかに決心し皿と棒を持ち込んだ。天井も、壁もすべてすばらしい絵が描かれてあり、床は大理石と思われる石を張っていた。皿は割れてもいいが、床に傷でも付けたら大変とびくびくしながら皿を回した。皿を回せても皿の中心に棒を持っていくのが大変難しい。日頃の精進の結果(?)かなんとか皿の中心に棒を持っていくことができて大成功となった。

元貴賓室で創建当時から今まで、いや今後も皿回しをする大道芸人(?)は他に出てこないであろう。

建物概要:
鉄筋、鉄骨コンクリート、煉瓦造り、地上3階、地下1階で、延床面積は7,904平方メートル。

天井と壁面には、明治時代の洋画の先駆者で、後に東京高等工芸学校校長となった松岡寿画伯の作品が飾られている。天井画は「天地開闢」、西側壁面上部には浪速に都を定めたとされる「仁徳天皇」を題材としたものが、南北の壁には商工業都市・大阪にちなんだ「商神・すさのおのみこと」と「工神・太玉命(ふとたまのみこと)」が描かれている。

大正7年:コロッケの唄、浜辺の唄、宵待草、赤い鳥小鳥、かなりや
大正8年:靴がなる、東京節(パイノパイノパイ)

鈴木バイオリンのマンドリン(1967) 楽器自慢?



皆さん、いろいろ楽器をたくさん持っていてブログで紹介しているがゆめじは今は手元にバイオリン一丁、半音の付いた教育用ハーモニカ程度しか持っていない。最初に買ったウクレレは捨てたか捨てられたらしい。たしか不純な動機でマンドリンを持っていたはずだがーーー

お盆に帰省したので実家の押入れを捜索してやっと古いマンドリンを見つけた。昔、古賀政男も所属していた明治大学マンドリンクラブのコンサートや女子大のコンサートにもよく行った。今でも明大の学生は学生服で演奏しているのだろうか。

なぜ、マンドリンをやり始めたのか今となってはよく分からない。かっこいい女の先輩がやっていた程度のことかも知れないが、オデルマンドリン教則本を持って先輩の家へ行き教えてもらったこともあったなあ。先輩が応接間にあるピアノで伴奏してくれて、全く合せられず恥ずかしかった。そして才能がぜんぜんないことを悟り1回限りの”ファーストレッスン”となってしまった。

月の砂漠や支那の夜はレパートリーとして演奏できたような気がしたがうん十年後に手にとってみても、バイオリンと同じ調弦だとか程度しか分からず全く弾けなかった。あと、音叉(A)も出てきたので当時は音叉で調弦できたのであろうが、今ではバイオリンもチューナーでしかできなくなっている。

マンドリンはさびた金具付きの黒いケースに入って静かに眠っていためか、傷も無くボディーはやわらかいふくらみがあり相変わらずきれいであった。当時は全く知識もなかったが、ラベルを見るとSUZUKI
VIOLIN CO., LTD NAGOYA JAPAN 1967の文字があった。1967年(S42)というと今から38年前の製造なの
だ。当時は学生にとってはギターより高かったような気もするがよく分からない。

さっそく鈴木バイオリンのHPで調べると、なんと一番安い鈴木バイオリンよりマンドリン(M-30 )の方が高価で7万円近くしている。練習用バイオリンよりマンドリンが高いなんていまだに信じられない。
品番No.230というのは調べてみるとバイオリンセットの品番に付いているようだが、私のマンドリンには確かにNo.230と書いてある。だれかマンドリンに詳しい方教えてくれませんか。

最近、1970年代の鈴木バイオリンを弾いてみたいと思ってネットを探したりしていたが、自分が鈴木バイオリンのマンドリンを持っていたとは夢にも思わなかった。昔の鈴木バイオリンとマンドリンを交換してくれるような方はいないだろうか。

いつかはバイオリン演歌を鈴木バイオリンで弾くことができるようにと願い、それまでは使っている”英国製中国製造”のバイオリンを大切にしていこう。

1967年:この広い野原いっぱい、夜霧よ今夜もありがとう、小指の思い出、花はおそかった、ブルー・シャ    トー、世界は二人のために、帰ってきたヨッパライ
1968年:山谷ブルース、 伊勢佐木町ブルース、受験生ブルース、花の首飾り、恋の季節

ゆめじのマンドリンのラベル:SUZUKI VIOLIN CO., LTD NAGOYA JAPAN No. 230 1967

鈴木バイオリン 商品カタログ http://www.suzukiviolin.co.jp/cat.html
マンドリンM-30 標準価格\68,250 、マンドリンケース No.15 標準価格\12,600
アウトフィットバイオリンNo.230 標準価格¥63,000

<旧制高等学校の建物> ナンバースクールとネームスクール とは?




旧制高等学校の校舎は現在の大学の構内にかなり残っている。
ゆめじも年を取ると”青年の元気は一国の元気なり”、日本の将来は若者に託されているという言葉に同感と思うようになってきた。
日本の社会は、当時のエリートの若者のために立派な建物(設備)を作ったのだ。今の大学も立派な建物を建てているが学生のためというより宣伝のためか。今の大学は「大人の学校」の略で「大学」だそうだ。

写真1:私立旧武蔵高等学校校舎(1923年(T12年))(武蔵大学)
写真2:私立旧成蹊高等学校本館(1924年(T13年))(成蹊大学)
写真3:一番有名な官立旧第一高等学校本館(1933年(S8年))(東大駒場) 

大正12年:月の砂漠、船頭小唄、花嫁人形、夕焼け小焼け、復興節 (関東大震災)
大正13年:背くらべ、月は無情、ストトン節
昭和8年:東京音頭、天竜下れば、サーカスの唄

旧制高等学校の目的:
戦前日本に存在した高等教育機関のひとつで男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成することを目的としていた。エリートに対する一般教養教育を目的とし、大学への予備的な教育機関としての役割を担った。現在でいえば、大学の1,2年生に対する教育(教養課程)に相当する。
(ただし、戦後の混乱期に旧制高等学校に少数ではあるが女学生も入学したらしい)

 旧制高校は最終的に39校あったそうである。修業年限は3年である(尋常科を置く場合は7年)。誰でも一応知っていて、寮歌も有名なのが”ナンバースクール”8校。これらの旧制高校は旧制大学や他の高等教育機関と統合して大学に昇格している。

大正時代の書生を演じていると、衣装だけでなく、高等学校のことも勉強してみたくなる。
高等学校といえば寮歌である。バイオリン弾き語りで演奏できるのは現在、”ああ玉杯に花うけて”、”紅もゆる岡の花”、”あああ黎明は(近づけり)”等のみである。もっと覚えなくてはーーー
ほとんどの寮歌のリズムはターンタ、ターンタである。なぜだろう?弓はアップからはじめるのか、ダウンがいいのか、よく分からない。最近のレコードでもはっきりリズムを刻まずに滑らかに歌っている。当時はどのように歌ったのか、太鼓に合わせて元気よく士気を高めるように歌ったのではないか。

”青年の元気は一国の元気なり。青年の意気の振、不振は直接その国運の消長に関係す。 --中略ーー
 わが寮生たるもの、その任務の重且つ大なるを思うとき、誰か意気更に揚りて天に冲するを覚えざるものあらんや。 それ寮歌は実にこの意気の発露なり顕現なり。只徒に怒号乱舞の具にあらざるなり。”
今から約80年前、大正15年の某官立高等学校舎監の言葉である。

1.官立
      ナンバースクール8校
   校名     (現在)          寮歌等
第一高等学校 (東京大学教養学部)    ああ玉杯に花うけて、春爛漫の花の色
第二高等学校 (東北大学教養部)     第二高等学校校歌  
第三高等学校 (京都大学教養部)     紅もゆる岡の花
第四高等学校 (金沢大学法文学部)    南寮寮歌 北の都
第五高等学校 (熊本大学法文学部)    武夫原、椿花咲く
第六高等学校 (岡山大学法文学部)    北寮寮歌若紫に
第七高等学校 (鹿児島大学文理学部)   北辰斜めに、楠の葉末
第八高等学校 (名古屋大学教養部)    伊吹おろし、春は日影

 その他の旧制高校は所在地の名前がついており、”ネームスクール”といわれた。その多くは新制大学の教養部や文理学部の母体となった。

2.官立
 東京地区では 、浦和高等学校 (埼玉大学文理学部)、学習院高等科(宮内省管轄) (学習院大学、戦後私立)、東京高等学校(7年)(東京大学教育学部附属高校、東京大学教養学部)。大阪地区では大阪高等学校 (大阪大学教養学部)である。

第一高等学校より入学するのが難しいのが学習院高等科であろう。勉強ができても、金持ちでも簡単には入れない。戦後、学習院大学になってからは普通の私立大学になり下がってしまったが。
あの三島由紀夫は1944年(S19)9月に学習院高等科を卒業、同年10月東京帝国大学法学部に入学し、1947年(S22)に東京大学を卒業している。彼は貴族でもないと思う。
第一高等学校に入れない場合、東京の近くのネームスクールは浦和(埼玉大)、水戸(茨城大)、静岡(静岡大)の高等学校である。関西地区では第三高等学校以外でネームスクールは大阪(大阪大)、姫路(神戸大)の高等学校がある。

3.公立
東京地区では、東京府立高等学校(7年) (東京都立大学附属高校、東京都立大学教養部)、大阪地区では 大阪府立浪速高等学校(7年) (尋常科廃止、大阪大学教養学部)である。

4.私立
 東京地区では、早稲田高等学院 (早稲田大学)のみが3年制である。他の武蔵高等学校 (武蔵大学)、成城高等学校 (成城大学)、 成蹊高等学校 (成蹊大学)は7年制である。

 その他に、帝国大学予科というのがあった。 北海道帝国大学予科、京城帝国大学予科(ソウル大学) 、 台北帝国大学予科 (台湾大学)。そこまで覚える必要もないだろう。
外地では旅順高等学校もあった。その寮歌であった「北帰行」は、昭和36年(1961)に当時の日活映画「渡り鳥シリーズ」でスターダムに上ったアクションスター小林旭が歌って大ヒットした。

東京中央郵便局(昭和8年、1933年)


逓信省(ていしんしょう)の吉田鉄郎による設計の東京中央郵便局は東京駅南口の目の前にある。吉田は大阪駅前にある大阪中央郵便局も設計している。

東京駅南口を降りると、正面に旧丸ビル左に白い東京中央郵便局、その間に三菱ビルが見えたものだった。ゆめじは毎日、中央郵便局の前を通って通勤していた。夏の暑いときにはわざと冷房の効いた郵便局のロビーを通ったりしていたのが懐かしい。売れ残った記念切手なんかもいつでも買うことができて大変便利であった。

新丸ビル、三菱銀行ビルなど周りはどんどん高層ビルになっていく中で、白いタイルを張った本当に昔の普通のビルであるが、むしろ堂々としていて目立つ存在である。東京駅南口側の角が緩やかなカーブを描いていて大好きである。ビルの裏は駐車場で赤い郵便自動車が出入りしている。今では使われていないが、東京駅と中央郵便局とは地下道でつながっていて郵便物を東京駅まで地上を通らず運んでいたらしい。

郵便局の皇居側には丸の内なのに八重洲ビルヂング(昭和3年)という古い石組みのビル(三菱関係)があり、地下の八重洲グリル(ニュートーキョー)にはよく行ったものだった。八重洲グリルは今はない。

昭和7年:影を慕いて、満州行進曲、討匪行
昭和8年:東京音頭、島の娘、天竜下れば、サーカスの唄
昭和9年:赤城の子守唄、国境の町、並木の雨

施工:銭高組、大倉土木  構造階数:鉄筋鉄骨コンクリート造5階建  竣工:1933年

プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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