演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)


神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年、発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭)にも七里ヶ浜の仇浪として記載されている。後でも述べるが一部の歌詞は今では変化している。

明治43年(1910)1月23日、神奈川県逗子開成中学の生徒(同校生徒11人と逗子小児童1人)が七里ヶ浜の沖で突風にあおられて乗っていたボートが転覆した。海中に放り出された12名は、冷たい冬の海の中で助けを求めたが、次々と海中に没した。

遭難者全員の遺体が発見されたのは、事故発生から4日後の1月27日だった。2月6日、校庭で追悼大法要が行われた。式の最後に、そろいの黒紋付き・はかま姿の鎌倉女学校生徒が歌ったのが、「七里ヶ浜の哀歌」である。
作詞者は鎌倉女学校で数学を教えていた三角錫子教諭で、曲は賛美歌の”When we arrive at home”(帰郷のよろこび)を使った。
三角教諭のオルガン伴奏で歌われた「七里ヶ浜の哀歌」は、その後、全国の女学生らに愛唱された。また、大正時代に入り演歌師のよって広く普及した。
遭難事故のことは知らなくても、賛美歌の美しいメロディーと悲しみに満ちた歌詞を知っている人は多いであろう。写真は鎌倉市にある”ボート遭難の碑”(兄弟の像)である。

実は今、この曲を練習している。金色夜叉の唄やほととぎすのように物語性があり、大変気に入っている。
野ばら社の楽譜はFで”ドファファファソラ”で歌いやすいが、バイオリンの弾きやすさを優先するとGかDである。Gはレの開放弦から始まるので演奏しやすいが最高音が高いソになってしまうので無理がある。そうすると消去法でD調”ラレレレミファ#”しかなくなってしまう。なんと、1と2の指ばかりで、3の薬指は1回しか使わない!もちろん、低くて歌いにくいとの意見もある、訓練で声を強引にバイオリンに合わせるしかない。

歌詞に”み魂”とか”ささげまつる”、”神よ早く我も召せよ”とあるが、曲が賛美歌であると知り納得した。

大正12年の歌詞からみると歌っているうちに変化してきているようだ。
”富士の峰”が”富士の根”、”仰ぎ見る眼も”が”仰ぎ見るも”、”か弱き腕”が”小さき腕”、”み夢にむせびし”が”み雪にむせびし”、”親の胸に”が”母の胸に”等である。
親の胸にが父だけ無視されて母の胸に変化したのは男としては悲しい!母は偉大なりか。
また、最近は腕を「うで」とみな歌っているが年配者は「かいな」と歌っているようだ。

石田一松の弟子で最後の演歌師であった桜井敏雄(1909~1996)の録音でも、神長瞭月発行のバイオリン楽譜通りに「仰ぎ見る眼も」、「捧げまつらん」とはっきり歌っていた。大正12年の歌詞も演歌師が全国にはやらせたと推測できる。
桜井敏雄演奏:https://dl.dropboxusercontent.com/u/18931763/Sound/shitirigahama.mp3

 七里ヶ浜哀歌(七里ヶ浜の仇浪)
 真白き富士の根 緑の江の島 (真白き富士の峰 緑の江ノ島)
 仰ぎ見るも 今は涙     (仰ぎ見る眼も 今は涙)
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつる 胸と心     (捧げまつらん 胸と心)

 ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も浪も 小さき腕に    (風も浪も か弱き腕に)
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 (力はつきはて 呼ぶ名は父母)
 恨は深し 七里が浜辺     (恨も深し 七里が浜辺)
 
 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて(御夢(みゆめ)にむせびし、風さえ騒ぎて)
 月も星も 影をひそめ
 みたまよ何処に 迷いておわすか(みたまよ何処に 迷いておわすや)
 帰れ早く 母の胸に      (早く帰って 親の胸に)

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 

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明治30年頃の書生(学生)の服装は?


札幌農学校の学生である。写真を見ると、学生服姿と着物に袴姿が半々である。また学生帽もみえる。

星野純逸送別記念(明治30年) 病気のため中退した星野(中央の和服姿)は、「星座」の主人公星野清逸のモデルとされている。星野の右前有島武郎。
北海道大学資料(札幌農学校)

 詰め襟の「学生服」が初めて登場したのは、明治12年、学習院(皇族・華族などの子弟を教育、宮内省直轄)が、海軍士官学校の「制服」を採用したのが始まりとされている。その後、明治19年4月、帝国大学が菱形の学帽と制服を制定したのが契機となり翌年頃から、高等師範学校(東京教育大学)、高等中学校(旧制高等学校の前身)、そして帝国大学など学生の制服として採用されていく。

もちろん、かすりの筒袖和服に袴を着け、下駄ばきという「書生」スタイルの学生も多くいた。いやまだ着物が主流であったであろう。
大正14年初夏の銀座における和洋服装の比率は、男子の和服33:洋服67に対して、女子は和服99:洋服1という状態で、女子の洋装はごく限られたものでしかなかったそうだ。昭和の前半期には女子の服装の洋服化がさらにすすめられた。

(参考:「制服の歴史」:制服についてのレポート(「くれよん」No.11、1993.7.15より))

有島武郎(1878~1923)は近代文学・白樺派を代表する作家である。明治29年(1896年)農業へのあこがれにより、東京から札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である新渡戸稲造宅へ寄宿。 札幌生活を送るうちに、有島武郎は札幌を「真生命の故郷」という程、札幌を愛するようになる。
彼の最後は親しくなっていた人妻で婦人公論の記者、波多野秋子と軽井沢へ向かい愛宕山の別荘で心中した。

東京駅(大正3年, 1914年) 元東京中央停車場





わが国の鉄道は、明治5年(1872)に新橋~横浜間が開通し、明治15年(1882)には私鉄の日本鉄道会社が北の玄関口上野駅を開業させた。しかし新橋と上野間は長い間直結せずに大変不便であった。そして、明治23年に「市区改正計画の一環として新橋~上野間を市内貫通高架線で連絡し、東京市中央に一大停車場を設置する」と決められたがなかなか計画は進まなかった。

大正になると、東京はどんどん近代化していく。大正3年(1914)に今の東京駅ができた。そしてその周りの丸の内には近代的なビルが建ち始めた。
以前は”東京中央停車場”という駅名であったが立派な赤レンガ造りの駅ができて”東京駅”となった。
東京駅の設計者は辰野金吾である(鉄骨煉瓦造2階建て、一部3階、地下1階、スレート葺)。
大正4年(1915)11月には、丸ノ内本屋の南半分を占める東京ステーションホテルが開業した。
大正12年(1923)の関東大震災ではほとんど損傷を受けなかったが、昭和20年(1945)の空襲により、丸ノ内本屋の2階部分から上がほぼ全焼した。

バイオリン演歌で丸之内、東京駅を歌っているのが添田さつき作詞の東京節である。現在もほぼ現状で残っているのは東京駅と日比谷公園であろう。この間歌ったら昔の帝劇を知っているといってくれた婦人がいた。

東京の中枢は丸の内   日比谷公園、両議院
粋な構への帝劇に    いかめし館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門  海上ビルディング、東京駅
ポッポと出る汽車どこへ行く
ラメチャンタラ ギッチョンチョンデ  パイノパイノパイ
パリコトパナナデ  フライフライフライ

大正2年:城ヶ島の雨、まっくろけ節、早春賦、鯉のぼり(いらかの波と雲の波)、海、冬景色
大正3年:カチューシャの唄、ゴンドラの唄、故郷、朧月夜、日本海海戦

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Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

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昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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