2005/04/28
丸ビル(丸の内ビルヂング 大正12年完成)
丸ビル(正式名称:丸の内ビルヂング)は、三菱合資会社地所部の設計とニューヨークの建築会社フラー社の施工で、大正12年(1923)に完成した。
1970年に初めて大阪から出てきて東京駅の南口から見た記憶がよみがえる。左から東京中央郵便局、風格のある三菱ビル、そしてあの丸ビルがあった。さすが東京の中枢丸の内だなと感じた。。残念ながら当時から残っているのは今では東京中央郵便局だけである。写真は今はなき丸ビル、左のビルは現在の三菱ビルである。
丸ビルの屋上にその地区の防火担当者が集まり、消火器を使って消防訓練をしたことが懐かしい。こんな経験は誰でもできるものではないのでつい自慢してしまう。
階段の手すりや壁は大理石だったような気がする。これらの大理石は建て替えられた後どうなってしまうのだろうか。どこかで保存してほしい。販売したら買うかもしれない。
一階には昔からあったであろう判子屋さん、海外からのお客さんへの七宝焼を買った瀬戸物屋、よく立ち読みした紀伊国屋書店、丸之内郵便局(?)、レンタルビデオ屋まであったなーーー。
丸ビルは歌にも歌われている。東京行進曲の2番では、「恋の丸ビルあの窓あたり 泣いて文(ふみ)書く人もある ラッシュアワーに拾った薔薇を せめてあの娘(こ)の思い出に」
とある。
しかし、大正8年の東京節(パイノパイノパイ)には丸ビルは当然存在していなかったので丸ビルではなく(東京)海上ビルディングが出てくる。
戦前完成した建造物の中で最大の延べ面積を誇り、東洋一の大ビルと称されオフィスビルの象徴でもあり、丸の内の顔であった。丸ビルは大正12年2月に竣工し、その年の9月に関東大震災にあったが無事持ちこたえている。
また、霞ヶ関ビルができるまでは、水やビールの消費量として丸ビル何杯分と例えられた。その後は東京ドーム何杯分である。
この丸ビルは1999年(平成11年)に取壊され、2002年(平成14年)に「新しい丸ビル」が竣工した。
1923年(大正12年)2月20日、丸ノ内ビルヂングが竣工する。同年の関東大震災では外壁や構造などに損害を受けたが、丸の内地区のほかの建造物と同様、被災者救援の拠点の一つとなり、その後大改修して1926年利用を再開した。
1937年(昭和12年)12月27日、東京駅との間に地下道が設けられた。
1999年(平成11年) 三菱地所は旧丸ビルを取壊して、建替えに着手した。
2002年(平成14年)地上180m、37階建てビルとなって、全面を改装してオープンした。下層には先代丸ビルの面影を残した超高層ビルになった。名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改称した。
新しい丸ビル
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Marunouchi_Building.JPG/250px-Marunouchi_Building.JPG
大正12年:船頭小唄 月の砂漠 花嫁人形 夕焼小焼 春よ来い 復興節
郵船ビル完成
参考:
昭和8年、皇居外郭一帯が美観地区に指定された際、軒高が31mという高さ指定は丸ビルの軒高が基準となり、また市街地建築物法(建築基準法の前身)では、耐震性のために建造物の高さも31mに制限された。
旧丸ビルの基礎は、コンクリートパイルや鉄ではなく松の木で作られていた。松杭は適切な水分があれば、長期間そのままの姿でもちこたえるとされており、長さ14m、直径約30cmのものが5,000本以上基礎として埋め込まれていた。旧丸ビルを解体した際、それらを掘り起こしたが、80年前に埋め込まれたにもかかわらず、腐食の進展はほとんどなかったそうである。