丸ビル(丸の内ビルヂング 大正12年完成)





丸ビル(正式名称:丸の内ビルヂング)は、三菱合資会社地所部の設計とニューヨークの建築会社フラー社の施工で、大正12年(1923)に完成した。

1970年に初めて大阪から出てきて東京駅の南口から見た記憶がよみがえる。左から東京中央郵便局、風格のある三菱ビル、そしてあの丸ビルがあった。さすが東京の中枢丸の内だなと感じた。。残念ながら当時から残っているのは今では東京中央郵便局だけである。写真は今はなき丸ビル、左のビルは現在の三菱ビルである。

丸ビルの屋上にその地区の防火担当者が集まり、消火器を使って消防訓練をしたことが懐かしい。こんな経験は誰でもできるものではないのでつい自慢してしまう。

階段の手すりや壁は大理石だったような気がする。これらの大理石は建て替えられた後どうなってしまうのだろうか。どこかで保存してほしい。販売したら買うかもしれない。

一階には昔からあったであろう判子屋さん、海外からのお客さんへの七宝焼を買った瀬戸物屋、よく立ち読みした紀伊国屋書店、丸之内郵便局(?)、レンタルビデオ屋まであったなーーー。

丸ビルは歌にも歌われている。東京行進曲の2番では、「恋の丸ビルあの窓あたり 泣いて文(ふみ)書く人もある ラッシュアワーに拾った薔薇を せめてあの娘(こ)の思い出に」
とある。

しかし、大正8年の東京節(パイノパイノパイ)には丸ビルは当然存在していなかったので丸ビルではなく(東京)海上ビルディングが出てくる。

戦前完成した建造物の中で最大の延べ面積を誇り、東洋一の大ビルと称されオフィスビルの象徴でもあり、丸の内の顔であった。丸ビルは大正12年2月に竣工し、その年の9月に関東大震災にあったが無事持ちこたえている。

また、霞ヶ関ビルができるまでは、水やビールの消費量として丸ビル何杯分と例えられた。その後は東京ドーム何杯分である。

この丸ビルは1999年(平成11年)に取壊され、2002年(平成14年)に「新しい丸ビル」が竣工した。

1923年(大正12年)2月20日、丸ノ内ビルヂングが竣工する。同年の関東大震災では外壁や構造などに損害を受けたが、丸の内地区のほかの建造物と同様、被災者救援の拠点の一つとなり、その後大改修して1926年利用を再開した。
1937年(昭和12年)12月27日、東京駅との間に地下道が設けられた。

1999年(平成11年) 三菱地所は旧丸ビルを取壊して、建替えに着手した。
2002年(平成14年)地上180m、37階建てビルとなって、全面を改装してオープンした。下層には先代丸ビルの面影を残した超高層ビルになった。名称も「丸ノ内ビルヂング」から「丸の内ビルディング」に改称した。

新しい丸ビル
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Marunouchi_Building.JPG/250px-Marunouchi_Building.JPG

大正12年:船頭小唄 月の砂漠 花嫁人形 夕焼小焼 春よ来い 復興節
郵船ビル完成

参考:
昭和8年、皇居外郭一帯が美観地区に指定された際、軒高が31mという高さ指定は丸ビルの軒高が基準となり、また市街地建築物法(建築基準法の前身)では、耐震性のために建造物の高さも31mに制限された。

旧丸ビルの基礎は、コンクリートパイルや鉄ではなく松の木で作られていた。松杭は適切な水分があれば、長期間そのままの姿でもちこたえるとされており、長さ14m、直径約30cmのものが5,000本以上基礎として埋め込まれていた。旧丸ビルを解体した際、それらを掘り起こしたが、80年前に埋め込まれたにもかかわらず、腐食の進展はほとんどなかったそうである。

スポンサーサイト



書生の袴紐の結び方は?


袴紐の結び方には十文字、一文字、重ね片結び、結びきり、蝶結び(花結び)等があり、またこのバリエーションがあるのでたくさんある。いろいろ調べてみたが袴の結び方は「結びきり」が本当らしい。

袴の紐は特殊な事情がない限り解けないように結ぶのが当然である。すぐ解けるように結んだり、外出から帰ってきて結び方が違うと厳しく追及されてしまう。そもそも羽織の紐とは違うのである。

しかし常に結びきりで袴を着用すると、すぐに紐が傷んでしまうので十文字結びなどが明治時代に考案されたらしい。
大正時代祭りで書生姿になったときも貸衣装屋さんが「結びきり」に結んでくれた。彼によると十文字結びなどはおめでたい席などでしか使わないとのことであった。

武道では武者結びや蝶結びにしているようである。

<結びきり>
しっかりと結び切ったら、余った紐を左右に振り、帯の両脇で袴の紐に絡げて止める。

神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年)



神長瞭月(1888~1976)はバイオリンを独学で学んで演歌の伴奏楽器として初めて使用したバイオリン演歌の先駆者(パイオニア)である。松の声(女学生堕落の歌)、残月一声、ハイカラ節等がある。
1918(大正7)年に神田で独立音楽会を開設しマンドリンとヴァイオリンの教習をしている。

仲間の演歌師銀月のたくさんのコレクションの中から演歌師の手によるバイオリン楽譜を紹介する。

これは大正12年(1923)に神長が発行した”流行名曲集”である。この年に関東大震災が起きた。
発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭と書かれている。当時としては高価な立派な楽譜集である。いわゆる演歌師が街頭で売る歌本ではない。(神長源ニ郎は神長瞭月の本名)


曲目は新柳節、バラの唄、青春の歌、商船学校白菊の歌、流浪(さすらい)の旅(現在は”るろう”と読ませている)、天然の美、七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌のこと)、コロッケー、新金色夜叉、新不如帰の唄、浜田栄子の歌、尼港惨劇遺族の涙等、まだまだあるが残念ながらほとんど知らない。

大正12年の「七里ヶ浜の仇浪」の歌詞からみると歌っているうちに現在の歌詞へ変化しているようだ。例えば、”富士の峰”が”富士の根”、”仰ぎ見る眼も”が”仰ぎ見るも”、”か弱き腕”が”小さき腕”、”み夢にむせびし”が”み雪にむせびし”、”親の胸に”が”母の胸に”等である。

新金色夜叉の歌はメロディーは現在の歌とほぼ同じであるが、歌詞が全く違うので紹介する。

花の香りを吹き送る  東風(こち)さへ未だ身にしみる
ここは熱海の春の宵  貫一お宮の二人ずれ

(下記は現在歌われている歌詞)
熱海の海岸散歩する  貫一お宮の二人連れ 
共に歩むも今日限り  共に語るも今日限り

国立国会図書館検索:
神長//瞭月が著作者として関わる書誌は3冊ある。(神長//源二郎)
全国書誌番号 タイトル 役割  出版地 出版者 出版年 ページ数 大きさ
41003264   華巌の嵐  著 東京 華巌の嵐社1906 47p15cm
41003268   血涙集   著東京日清堂  1907 104p  16cm
40075063   不如帰   著東京讃美界雑誌社1909 8p 24cm

演歌師 神長瞭月(1888~1976)
https://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/25381662.html

小金井公園花見&大道芸 2005




4月9日(土)、小金井公園江戸東京たてもの園入口前の広場で花見を行った。天気もよく桜も満開である。広場では神楽のグループが獅子舞をやっていた。

われわれのグループは南京玉すだれ、腹話術、バイオリン演歌である。たてもの園入り口前に陣取って交互に演じた。
入口の近くは待ち合わせ場所になっていて大人数が留まっていて皆よく見たり聞いたりしてくれるので都合がよい。
30-40名の中学生グループ(男女)は礼儀正しく一曲ごとに拍手してくれる。喜んでいたら、時間が来たらしく突然全員が移動していなくなってしまった。あとの観客は数人だけ。さみしいーー でもこれが実力だろう。

でも書生姿で高下駄をはいていると写真はよく撮られる。特に外国人には格好が珍しいらしい。ある若者が旧制高等学校について興味があるらしくいろいろ聞いてきた。大学へ進学するための男子の高等教育機関であるので女学生はいないこと、故に、女性は帝国大学へは進学できないことを説明した。もちろん、編入学は可能であり手違いで帝大へ編入学してしまった女性もいるらしい。また戦後は少数だが女子高等学校生も登場したらしい。

広い公園の中を歩いていると、本物の旧制高等学校の元学生(約50名)たちの花見に遭遇した。第二高等学校と書いたのぼりを木にくくりつけてその下で円陣を組んで大声で歌っている。全員が白線入りの学帽をかぶり、袖なしの揃いの羽織を着ている。
写真を取らしてもらったが、こちらからはさすがに”帝大生のゆめじ”ですとはいえなかった(写真)。
でも、昔の書生姿やバイオリン演歌を次の世代へ伝えていかなくてはと本気で思った。

第二高等学校は現在の東北大学教養部である。昭和24年3月の卒業生が最後の第二高等学校の卒業生であろう。その時、二高は既に東北大学の一部となっており、もう東北帝国大学の学生、帝大生にはなれずに普通の大学生となったはずである。あと10年経てば帝大生はおろか旧制高等学校の学生もほとんどいなくなるだろう。

<ボランティア仲間の大衆演芸まつりでバイオリン演歌 2005


今回は家から紺絣の着物を着てもんぺをはいてズックで12:00頃日本橋亭に着いた。もんぺを脱ぐだけで着替える必要がないから便利であるが、着物の腰から下にしわが寄るのか欠点である。

客席で楽しんでいると、主催者から今日は司会が1名しかいないので司会をするように指示(命令?)される。この会では私なぞ若い、若い下っ端である。
初めて司会をしてみると大変なことが分かった。二人がかりで出演者の来場確認、順番変更、演目変更、名前・演題の読み方の確認等、マイクの前でしゃべるまでの準備が大変で書いたものを見ながらでもスラスラとは言えない。観客にジョークをいったりできることが信じられない。舞台に出て次の出演者を紹介して逃げ帰るのか精一杯であった。
一本刀土俵入りの歌謡劇一幕3場 取手宿:茨城県の取手(とりで)の宿だから”とりで”の宿だと思っていたら”とって”の宿だそうだ。知らなかった、昔は”とって”といっていたのかなあ。勉強になりました。

個人的には三味線(俗曲たぬき)、コント歌舞伎(弁天女男白波 五人男ではなく一人男+四人女)、腹踊りが気に入った。あとキラキラの着物でマツケンサンバも面白かった。

<俗曲たぬき>
山で寝るときゃ、木の根がまくら
柴を背負ったら気をつけろー
火の用心 さっしゃりやしょう

腹踊りはとてもできるものではない。奥さんが毎回、主人のお腹に時間をかけて顔の絵を描いているとのこと。普通なら主人がやりたくても奥さんが止めるだろう。素晴らしい夫婦である。でもどうやったら腹が膨らんだりしぼんだり自由自在に調節できるのだろう。(写真)

司会から解放されて外に出てバイオリンをチューニングして日本橋亭の前で一通り演奏してみた。日本橋は製薬会社や薬問屋の街であるが休日の夕方ためか車も人も通らず道路で演奏していてすごく気持ちいがいい。だれもやってないだろうとちょっぴり優越感を感じた。

あと盆踊りの東京音頭はやっぱり生の三味線と唄で踊るのは楽しい。レコードなんかない昔は全部生伴奏だったんだなあと自覚した。

バイオリン演歌は定番の有名なものだけにして明治から昭和まで並べて演奏した。やっぱりあせって早口になってしまったと反省。お客さんをよく観察してゆっくりしゃべって間を持たせてーーといつも注意されているがなかなか身に付かない。どんな大道芸でも芸のレベルは上がっても話術はなかなか上達しないそうである。
演奏曲:美しき天然、金色夜叉、東京節、かごの鳥、湯島の白梅、船頭小唄

遠い横浜から”へなちょこ雑音日記”のreels53さん(アイリッシュフィドル)がわざわざ見にきてくれて記事にまでしていただいた。感謝。

日時:2005年4月10日(日)11:30-19:30
場所:お江戸日本橋亭   木戸銭:無料
演目:大正琴、手品、舞踊、歌舞伎声色、三味線、講談、歌謡劇(一本刀土俵入り)、舞踊劇、紙芝居、玉すだれ、コント歌舞伎、大道芸(胡弓、バイオリン演歌、六魔、がまの油売り、三味線)

バイオリン演歌 書生節 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 帝大生ゆめじ 昭和歌謡

バイオリンを演奏する明治時代の学生(札幌農学校)


写真はバイオリンを楽しむ農学校学生たちである。(明治31年頃) 左から森本厚吉、有島武郎、森廣

この写真を見ると着物・袴姿で姿勢もきちんとしてバイオリンを演奏している。着物の下はワイシャツを着ているがスタンドカラーではなく折り返しのあるえりのようにも見える。女学生が着物・袴姿でバイオリンのレッスンを受けている写真も見たことがある。控えの女学生は全員いすに座って順番を待っていた。女学生はいすに座っての授業のためすそが乱れるので袴の着用が許されたそうである。

東京帝大の物理学の教授で随筆家であった寺田寅彦も五高(熊本)時代に金八円八拾銭を出しバイオリン一個を買っている(明治31年5月)。当時の寅彦への仕送りは月々11円であったので、相当無理して買っているようだ。そして下宿の後ろにあった竜田山の山頂へ登り隠れて練習したとある。何を練習していたのだろうか。クラシックか寮歌か、唱歌か、具体的な記述はない。

有島武郎(1878~1923)は近代文学・白樺派を代表する作家である。明治29年(1896年)農業へのあこがれにより、東京から札幌農学校予科に編入学し、母方の伯父である新渡戸稲造宅へ寄宿。 札幌生活を送るうちに、有島武郎は札幌を「真生命の故郷」という程、札幌を愛するようになる。
彼の最後は親しくなっていた人妻で婦人公論の記者、波多野秋子と軽井沢へ向かい愛宕山の別荘で心中した。作家にはよくあるパターンであった。
(写真:北海道大学資料)

書生には絣(かすり)の着物


<紺絣 オリン抱きし 夜の辻> 演歌師 帝大生ゆめじ (オリン:バイオリンのこと)

今まで大学帽、高下駄を紹介したが、今回は書生が着ている絣の着物を紹介する。

かすり(絣、飛白)とは所々かすったように文様を織り出した織物、または染文様のことである。文様を織り出したのを織絣、模様を染め出したのを染絣という。
柄は「十字絣」「蚊絣」「井桁絣」等いろいろある。私が持っているのは紺絣(十字絣)である。
書生が着ている絣柄をいわゆる書生絣という。書生の着物は木綿の絣で、夏は単(ひとえ)の白絣、それ以外は袷(あわせ)の紺絣を通常着ている。この写真は書生絣である。

白絣:白地に紺または黒のかすり模様をあらわした布
紺絣:紺地に白くかすりを織り出した文様の布

久留米絣(福岡県南西部))、伊予絣(愛媛県)、備後絣(広島県東部)が三大絣として有名である。

有名な小説にも紺絣の着物がよく登場する。以下に例をあげる。

”婦系図(おんなけいず)”も”湯島の白梅”も知らない人でも"分かれろ切れろは芸者のときにいうものよ。今の私には死ねといってくださいな"というせりふはご存知であろう。お蔦(つた)・主税(ちから)の物語である。泉鏡花の婦系図に出てくる主税も紺絣を着てかっこいい。
「主税がまた此地(こっち)へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放(なぎはなし)の頭髪(かみ)も洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波(なごり)は争われぬ。土地の透明な光線には、埃(ほこり)だらけな洋服を着換えた。酒井先生の垢附(あかつき)を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴(ともえ)の紋着(もんつき)の羽織の中古(ちゅうぶる)なのさえ、艶があって折目が凜々(りり)しい。久留米か、薩摩か、紺絣(こんがすり)の単衣(ひとえ)もの、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦つたが心懸けたものであろう。」 

川端康成「伊豆の踊り子」
「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。」

上野公園花見にバイオリン演歌師登場? 2005


4月2日(土)11:00に上野駅公園口で待ち合わせをして、上野公園へと出かけたが大通り以外、通常歩道になっていることろはすべてシートが張られて宴会中である。しかたがなく「上野大仏」がある小高い丘へ登る階段の最上階に陣取った。見下ろすと道路は通行人でごった返し、その両側で花見をしている状況がよくみえる。この丘には関東大震災で大仏の面部が落下し、今はその大仏の面部がレリーフとして安置されている。

まず新聞紙を敷いて赤い布をかけて、西友で買ってきたまき寿司、稲荷ずし、乾き物、焼酎缶、ビール缶を並べると花見らしくなった。書生姿(着物+袴)で腹ごしらえをしていると、書生姿と横に置いてあるバイオリンがめずらしいのかおばさんが寄ってきてバイオリンやるの、何かやってと催促する。
籠の鳥や船頭小唄等をやっているとまたぽつぽつ人が増えて拍手をしてくれたりする。大江しげるのバイオリン演歌を見たというご夫婦もあらわれて昔のことを説明してくれた。そのうちに、”今年は静かだわね、こんな階段の上じゃなく、下の道路で演奏して盛上げてきなさいよ”としきりに勧めてくれる”おせっかいおばさん”も登場。しかし、道路は腕章をした警察官がパトロールしておりそんな状況ではない。

食事をしてから、演奏する場所を探すこととなった。途中でアンプ付きで尺八演奏している男性がいた。野口英世像のある噴水の方は人通りは多いが宴会はしていないのでそこで宴会&公開練習をすることに決めた。(写真は演歌師 銀月)。

交互に大正時代の曲を演奏したが、観客からは次々リクエストがあり、つくづく演奏できない曲が多いことを痛感した。お客さんは年配者だが戦争に行ったことがない世代(80歳以下)である。だが大正時代や昭和の始めの曲をよく知っている。多分子供の頃、親や大人たちが歌っていたのであろう。
中国や欧米の人にも書生姿が珍しいのか、一緒に写真に入るように頼まれ記念写真を撮られた。
花見で遊びに来ているためか皆さん心温かく拍手して聞いてくださった。
野ばら社の日本のうたをもっと暗譜して演奏できるようにしなければと誓い合った演歌師兄弟(duo)であった。

演奏したバイオリン演歌:
美しき天然、金色夜叉、籠の鳥、船頭小唄、東京節、さすらいの唄、流浪の旅、復興節、酋長の娘、のんき節、湯島の白梅、二人は若い等

リクエストがあった石田一松も歌っていた”男なら”、一高寮歌(ああ玉杯に花うけて、春爛漫の花の色)、七里ヶ浜の哀歌、三高寮歌、まっくろけ節等はこんどまでに練習しますということで勘弁してもらった。

小学校で大道芸「がまの油売り」を禁止! (新聞記事)

小学校校長が生徒の前で「がまの油売り」を実演したことが問題になった。模造刀を振り回して演技をしたが、模造刀でも刃物を使うのは好ましくないとの批判の声があがったそうだ(下記の記事参照)。
がまの油売りは刀で腕を切って血止めの薬を売るのが商売。こんなことまで禁止されては日本の大道芸は消えてしまう。お祭、イベント等どこでやってももいちばん人気があるのが「がまの油売り」であるし、子供も最初は”いやだ!切らないでーー”とかいうが、演者がじらすと最後は”早く切れ!切れ!”と大合唱となる。本当に切るとは思っていない。
「がまの油売り」と校内での刃物による事件とは無関係であろう。教育現場こそが日本の伝統、昔の大道芸を子供たちに伝えていくべきである。

<小学校校長>模造刀振り回し「がまの油売り」 東京・町田
 東京都町田市の小学校で昨年11月、50代の男性校長が、全校児童の前で日本刀の模造刀で大根を切る「演技」をしていたことが分かった。市教委の山田雄三教育長は「校内の刃物持ち込みに過敏になる中、慎重さを欠く行為」として校長に注意し、近く都教委に報告する。校長は事実関係を認めたうえで「そこまでやる必要があったかと強く反省している」と話している。
 市教委と校長によると、昨年11月8日、校長はグラウンドで行われた朝会に紺色の剣道着とせった姿で現れ、「がまの油売り」の口上を実演。さらに居合用日本刀の模造刀(刃渡り約80センチ)を数回振り、長さ約20センチの大根を切った。児童とは6~7メートル離れていたという。
 長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件を受け、同校では児童に校内へのカッターナイフの持ち込みを禁じ、はさみなどの管理を徹底させていた。教職員や保護者から「模造刀とはいえ、刃物を使うのは好ましくない」などと批判の声が上がり、市教委が事実関係を調べていた。
 校長は「間近に控えていた劇や歌などを披露する学習発表会に向けて動作や声の出し方を教えたいと思った」と釈明している。【工藤哲】
(毎日新聞) - 4月1日3時4分更新 (2005年)

書生姿には腰手ぬぐい


手ぬぐい(手拭)とは手や顔、体をぬぐうための布であり、普通、手ぬぐい地(地のあらい木綿織の布)を3尺(約90cm)ぐらいの長さに切った布である。現在はタオル(西洋てぬぐい)が使われており、ほとんどみなくなった。書生は商店からもらった屋号、商品名等が入った宣伝用の手ぬぐいを愛用する。わざわざ買ったような豆絞りの手ぬぐい等は使わない。また、新品でなく十分使い込んで柄が色落ちして黄ばんでいるのがよい。

戦前のエリート学生(書生)の特徴は、破履・破帽・腰手ぬぐいであるらしい。
書生の腰にはよく手ぬぐいをぶら下げいた。この手ぬぐいは手を拭いたり、汚れたものを拭いたりしていた万能手ぬぐいである。商店の小僧さんたちが前掛けを手拭につかったり、荷を担ぐ時着物が汚れるのを防ぐため肩にかけたりするのと同じであろう。実際に手ぬぐいを腰にぶら下げて使ってみると大変便利である。いまでもおばさん主婦がエプロンを顔や手を拭いたり、熱いものを持ったり、堅くなったビンのふたを開けたりしているのと同じである。あと、涙をふいたり、顔を隠したりもできる。

約35年以上前の大学では助手や一部助教授さえ実験室では腰に汚い手ぬぐいをぶら下げて便利に使っていた。ある講師は階段教室での講義の時さえ手ぬぐいをぶら下げていたのをなつかしく思い出した。そういうスタイルや風習はすでに消えてしまっているだろう。今では農作業の時にさえ腰手ぬぐいなぞしない時代である。機械に巻き込まれるため作業の安全性確保のため禁止!

先生の腰手ぬぐいや風薫る   尋子

プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

月別アーカイブ

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR