神谷バー(神谷ビル 大正10年)& 花見



初めて東京駅に降り立ったときに見た丸ビルはもう壊されて新しい丸ビルになってしまっている。大正演歌、バイオリン演歌をやっているので大正時代、昭和初期のまだ健在な建物をぜひ紹介したい。第1回目は電気ブランで有名な浅草の神谷ビルである。

去年(2004年)の花見は雨で散々だった。4月4日(日)、大道芸の仲間と浅草の隅田公園で花見の会をやるその日は朝から雨であった。中止だと思って家でごろごろしていると主催者から電話がかかってきた。”いま浅草にいるんだが雨が止んでいるよ。今からでも来ないか”窓から外を見るとたしかに雨は止んでいた。バイオリンをもって急いで地下鉄に乗って浅草へと出かけた。雨は止んだり降ったりの状態で、人出は多いが、歩いて桜を観たり、水上バスに乗って花見をする人ばかりである。寒くて公園内で座って宴会をしているのは数グループのみであった。
結局、主催者と私のたった2名で花見宴会&公開練習である。玉すだれやバイオリン演歌をやった。それでも寒いのに立ち止まって見てくれる人もいた。ありがたいことである。
曲目:美しき天然、東京節(パイノパイノパイ)、さくらさくら、荒城の月等

雨が降り出したので中止して、浅草の神谷バーに入り昼食兼打ち上げとなった。
この店にくるとあがた森魚の”神谷バーの でーーーんきブラン”という歌を思い出す。
外が寒いせいか店内(1F)は相変わらず込んでいる。電気ブランを飲む同士となるとたまたま隣り合わせた人とでも話が弾んでしまう。バイオリン演歌の話をしていると、隣にいた毎日ここへ来ているというおじいさんが突然、石田一松の話をし始めた。一松ののんき節を戦前に直接聞いたことがあるといって歌ってくれた。中国の中支へ進軍した軍を皮肉った歌であった。今でも覚えているとはすごい。当時の演歌師はバイオリンを演奏していても今にも歌いそうでなかなか歌わない。どんどん客が集まってくるまで延々と引っ張ってなかなか歌わないそうである。

神谷バーは1912年(明治45年)に店内を洋風に改造して神谷バーとした。1882年(明治15年)には速成ブランデー(現在のデンキブラン)の製造販売を始めた。そして、1921年(大正10年)に現在も使用している建物”神谷ビル”が完成したのである(写真は大正時代と現在のビル)。

30年以上も前に初めて来たときも込んでいて、電気ブランをあちこちで飲んでいて独特の雰囲気があった。そのとき一杯150円、今は一杯260円、大正時代は10銭だったそうだ。食券を先に買ってからウエイトレスの渡す方式であり、これは今でも変わっていない。そのとき買ったデンキブラングラス(2ヶ)は今も大切に使っている。

<電気ブラン(あがた森魚)> (乙女の浪漫 LP)
 浅草六区へ行くんだったら電気ブラン
 たった五十銭 神谷バアの電気ブラン
 一口天国二杯で地獄 三杯呑んだらあの世行き
 あの娘のようにシビレてしまうぜ電気ブラン
 おさかなうまいね神谷バアの電気ブラン

デンキブラン:ブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などをブレンドしている。しかしその分量 だけは未だもって秘伝 になっている。あたたかみのある琥珀色、ほんのりとした甘味が当時からたいへんな人気であった。ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度である。大正時代は、浅草六区(ロック)で活動写真を見終わるとその興奮を胸にデンキブランを一杯、二杯。それが庶民にとっては最高の楽しみであった。
神谷バー: http://www.kamiya-bar.com/

大正10年:赤とんぼ、どんぐりころころ、七つの子、赤い靴、夕日、てるてる坊主、雀の学校

スポンサーサイト



読売書生節 椋 蓮 花

『文芸倶楽部』明治43年(1910)7月号に掲載された「読売書生節」 
大道芸通信 第117号資料編(編集発行 光田憲雄)から要約を転載。

記事には演歌師の実態が記載されている。学生の学校名、営業場所の地名、客層等も分かり面白い。学校は神田、お茶の水、上野あたりの学校が多く、今でもほとんどが発展して現存しているのは幸いである。

読売書生節 (1) 椋 蓮 花
<新聞雑誌の読売>
 新聞雑誌の読売は一時すこぶる流行したものであるが、その筋の風教取締りが厳重になってからはその影を見なくなったに関わらず、今なおその名残をとめているのは、縁日の人出を当て込みに、帽子まぶかに刷物で顔を覆った若き男が、そこの横町ここの軒下にたたずんで、抑揚面白おかしく、唄いつつ読売する当世流行の書生節あるいはハイカラ節というもののみである。

 下町の縁日及び花柳街は申すに及ばず、山手、はては新宿、大久保、品川、千住、板橋と郡部の大路小路にまでその影を見るのは、これでも商売になるものと見える。

<売り子は苦学生?>
 売り子は弊衣(破れた着物)、破帽子、腰に書生袴をつけ、書生下駄をはいた学生風の青年ばかりである。けれども中には苦学生を標榜して、書生節の読売を渡世にするものや、遊興費にする堕落学生などもできたとのことである。それかあらぬか、近来はバイオリンなどに合わして、読売をするものがあるのを見受けるようになった。歌風の柔弱となるにつれての、売子の格まで堕落したものとでもいうべきであろう。

 ではどんな種類の学校に通学する学生が多いかというに、中学生のごとき普通学をやっているものも全然でないではないが、多くは専門学をやっている学生が多数を占めている。正則英語学校、国民英学会、研数学館、工手学校、鉄道学校、慶応、早稲田、明治、法政大学などの学生で、中にも語学数学法律商業などを専門に学ぶのもが多いとのことである。

読売書生節 (2) 椋 蓮 花

 読売書生節(1)に苦学生の学校の名前が記載されているので、その学校の沿革に関して調べたので書いておく。ほとんどが私立の専門学生と当時の”大学生”である。(これらの私立大学が大学令による大学となるのは大正9年である)

正則英語学校:
明治29年に英語学者の斎藤秀三郎先生によって創立された。正則商業学校を経て正則学園高等学校となり現在に至る。明治32年4月には、生徒数3000人を数えるほどになった。
研数学館:
明治30年(1897)に開設された名門予備校。2000年に閉鎖している(予備校業務から撤退、法人は存続している)。本館は今は大正大学が使用している。
工手学校:
明治20年(1887)工手学校として東京の築地で開校し、昭和3年(1928)西新宿の現在地に新校舎を完成して、 校名を工学院に変更した。現在の工学院大学。
鉄道学校:
明治30年わが国最初の鉄道学校として創立。現在の岩倉高等学校。

慶応義塾大学:
福沢諭吉が創設した蘭学塾が慶応義塾となる。1890年に大学部が発足した。大正9年(1920)に大学令による大学となる。
早稲田大学:
1881年 大隈重信により、東京専門学校として開校。1901年 に早稲田大学と改称し、大学部と専門部を設置。大正9年(1920)に大学令による大学となる。「金色夜叉の歌」の宮島郁芳は演歌師となり学資を稼ぎ早稲田大学文科予科に入学。
明治大学:
明治14年(1881)に明治法律学校開校。1903年に明治大学と改称。大正9年(1920)に大学令による明治大学となる。
法政大学:
明治13年(1880)に神田駿河台に東京法学社を設立。1903年に法政大学と改称。大正9年(1920)に大学令による法政大学となる。
「のんき節」を唄って演歌師から国会議員になった石田一松が法政大出身。

読売書生節 (3) 椋 蓮 花

 100年経って読売苦学生いや演歌師は消えてもほとんどの学校が現存して大学になっているのには驚かされる。在校生が優秀だったのか、はたまた大人の学校である”大学”になり下がったのか。これら学生の中から再びバイオリン演歌師が出現することを期待する。

 当時の演歌師には官立の専門学校等の学生はいないと思うが、参考までに東京外国語学校、東京高等商業学校、第一高等学校の沿革も調べたので記載しておく。

東京外国語学校(官立):
1873年に東京外国語学校開設。1899年に東京外国語学校(神田錦町)が文部省管轄3官立専門学校の一つとして独立した。東京外事専門学校から1949年に東京外国語大学(国立)となる。
人肉事件で知られる「男三郎の唄(夜半の追憶)」の主人公である野口男三郎もここを落第退校している。

東京高等商業学校(官立):
1875 (明8)に商法講習所開設。1902 (明35)に東京高等商業学校となる。1920 (大9)に東京商科大学となり、現在は一橋大学(国立)。

第一高等学校(官立):
明治10年(1877)に東京大学予備門、明治19年(1986)に第一高等中学校、明治27年(1894)に第一高等学校となる。昭和24年(1949)に東京大学教養学部となる。いわゆるナンバースクールのナンバーワン、名門中の名門校。

読売書生節 (4) 椋 蓮 花

<バイオリン演歌の練習方法>
 ああ夢の世や、夢の世やと路傍にたたずんでやるまでには、なかなか骨が折れるようで、節を覚えるのは少し器用なものは稽古するほどでもないが、歌を暗記するのが容易なことではない。下宿の二階で歌を暗記してから、大道へ出るまでには、上野の奥や柴の山内乃至青山の練兵場、戸山の原などの人通りのない所で、一所懸命に練習する。そうして練習ができると、先輩に連れられて大道へ売りに出るのであるが、おじけで声が震えたり、歌が詰まったりしなくなるには半月や一ヶ月ではだめだそうな。

 ところが、縁日などで沢山な人垣にかこまれた真中で、臆面もなく怒鳴り立てて歌本の一部も自ら売るようになるまで面の皮が千枚張りになるとよからぬ横道へ誘われて堕落の淵へ沈むのである。

<一晩の売上その使い道>
 平均一夜一円ぐらいはある。もっとも歌の全盛期と否とは、売上高に大なる差がある。「夜半の嵐」、「不如帰」、「ハイカラ節」などの全盛期などには、一夜平均ニ、三円ぐらいの売上高に達したことがある。また「松の声」という歌が極度の流行に達して、市中の駄本屋などが真似てにかよった歌を出版したころには、一夜四円から五円の売上に達しないことは稀なくらいであった。

 時代に応じた新作の歌が出たときには、大いにもうかるので、縁日から帰りにおでんで茶飯をくって、空腹を満足せしめたのが、こうなるとおでん位では腹の虫が承知しなくなり、牛屋鳥屋と次第に贅沢になる。それがこうじて汚い薄暗い四畳半や三畳の下宿や木賃宿で、せんべい布団にひざ小僧の抱き寝がいやになって、安女郎買いにでも行きたくなる。そうすると、元も子もなくなるまでに財布の底をはたいて、手も足も出せぬようになって、ついに堕落の淵に沈んでしまうのである。

 これまでに堕落しないまでも、この書生の売子は売上高の四、五割は自分の収入になるから、少なくとも月平均十二、三円から十五円、二十円にはなる、で、苦学生としては収入が多すぎる。そうしてそれが比較的楽にもうかる金であるから、自然と遊惰に流れて勉強するのがいやになってくるので、全くの書生節読売人と化すのである。で、かえって車夫になって苦学するものよりも、成功するものが少ないのである。

読売書生節 (5)  椋 蓮 花

<書生節の売りさばき元>
 主に浅草北清島町十二番地、武井傳方である。ここでは苦学生の売子に卸売りをするだけでなく、直接統御する売子ばかりでも七、八十名くらいあって盛んに読売に出している。市中の各所の縁日に出るのは多く、ここから出る売子であるのだそうな。今では、苦学生を標榜した売子を、近県に出張せしめて盛んに売らしているとのことである。なおこの外には、本郷駒込神明町三十七番地の賛美会、本所区林町一丁目十四番地の苦学力行社、神田区三崎町三丁目一番地の青年同士社等からも多くの売子が出るのである。
 
 これらの売りさばき元は一部一銭、また歌によっては二銭五厘くらいで売子に卸すのである。用紙が悪いザラ紙なり、印刷も至って粗末であるから安く出来る。それで売りさばき元は五、六割の利益があって、結構商売になるとのことである。売行きは歌にもよるが、概して恋愛物、こっけい物が売行きがよい。悲壮なものでは軍事物は売れないでもないが、政治物は売れ口が悪いようである。それでも官吏などの悪口を歌ったものは売れはするけれど、官吏侮辱などとやかましく言われる。これでも商売と名が付くだけに、売行きに季節の関係があるから可笑しい。

<どの季節にどこで売れるか>
 売行きの好季節というのは花の三月から紅葉の十月ごろまでの間である。その間でも蒸暑いに家にいて蚊にさされるよりも、涼みがてらの散歩に出かけようという盛夏の季節が一番売行きがよい。これは要するに人出が多いからである。それに場所の関係も大いにある。売りに出るのは、縁日や夜店の出る町々であるが、その縁日や夜店の出るところではその陣取り場所に関係がある、というのは、一寸この道に暗い人には解せないことである。それは書生節の読売に限って、どこの縁日夜店でも薄暗い横町や人影の薄い軒下でやっている。一見これは人に顔を見られるのがいやなのと、一つは道路妨害のお小言を頂戴せぬためであるかのように思われるであろう。もっともそれもないではないが、そんなおぼこい考えからではない。売子の方ではお客の便利を計って、誰にでも買いよい様に相互の顔がはっきり分からぬような所を選ぶのである。薄暗い横町や人影の薄い軒下に陣取るのは、いわば一種の商略に過ぎないのである。

読売書生節 (6)  椋 蓮 花

<書生節のお得意種別>
一番のお得意は学生職人小僧連で、七八分、その次が女学生好事の官吏文士なぞの紳士連で二三分、こういう客種であるから売子のほうから買いよいようにあんな所をわざと選ぶのである。 

<書生節の二大作家>
 この二大作家以外に書生節の作歌を企てたものもないこともないが、これほどの人気がない。それのみならずこの作家の作家以外には、どんな文豪の名作の歌でも、「松の声」、「不如帰」、「残月一声」等のような売行きをみることはできないとのことである。この二大作家中、まず当代第一というべきは、賛美会というのを設けている神長瞭月君である。苦学生の一人で、当年二十五、六の青年、書生節を作って国民英学会を卒業して、さらに高等の専門学校に通学せるもの、その作歌中「松の声」、「華厳の嵐」、「半生の夢」、「獄窓の夢」、「松島艦」、「ハイカラ節」、「残月一声」、「波のむせび」などは今なお流行して売れつつある。第二は当年二十三、四の青年、大阪生まれの中林武雄君である。君は名声まだ瞭月君に及ばざる遠きも、前途有望の作家で他には君に及ぶものはないとの評判である。君が苦学青年作物には「不如帰」、「夜半の憶出(おもいで)」、「堕落青年」、「志気の歌」、その他評判の高いものが沢山あるそうな。

今の所では瞭月君の「松の声」はさびれ、武雄君の「夜半の憶出(おもいで)」もすたれて、「残月一声」と「不如帰」が最も歓迎されている。

 なお、ニ君ともに新傾向に応ずる新作に、目下苦心して趣向を凝らしているとのことであるから、今夏あたりは縁日で耳新しい歌に接することであろう。 
以上

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた)記事(大正2年)についてのコメント

『文芸倶楽部』大正2年(1913)11月号に掲載された、「路傍の流行唄 谷人生」はバイオリン演歌全盛時代の密着取材記事である。当時の時代背景、演歌師の実態、曲目等がよく分かる。
この記事は90年後の今日からみても大変興味深い内容である。

 添田唖蝉坊がいかに立派な演歌師であっても、神長瞭月がいかに自慢する男であっても、興味があるのはバイオリン演歌師のパイオニアである神長瞭月である。楽器を使う大道芸は新内流し、法界連からバイオリン演歌師へ、そしてギター、アコーディオン流しへと昭和、平成までその伝統が受け継がれている。

 演歌師はやはり、ほとんどがニセ学生か、堕落生だったのか。現代版は、『○○大学の学生でーす、この(夜の)お仕事は初めてなのでよろしく』という自称大学生である。宮島郁芳は早稲田大学、石田一松は法政大学にいたらしいが、私立ではなくて官立の高等学校や帝大の苦学生は演歌師にはいなかったのか、高等文官試験に合格した演歌師がいたりすると面白いのだが(いたとしても過去を隠しているか)。

 最初はバイオリンだけでなく、手風琴や横笛、楽器なら何でも使って人集めをしていたことも分かった。また、バイオリンを弾きながら歌うのがバイオリン演歌師という定義ではなく、バイオリンを弾く人、唄う人、唄本を売る人と分業して効率よく稼いでいたことが分かる。他の資料でも、有名演歌師ともなれば、弟子にバイオリンを引かせて自分は歌うのみというスタイルだったようである。これは流しのときはギターを弾きながら歌っていたが、有名になると歌うだけになる演歌歌手と同じではないか。

 演歌師は三人で一晩に三、四円、一人で一円から一円三十銭の稼ぎになったと記事にある。当時の物価の資料によると、大工日当85銭(T2年)、地方役場の吏員月給23円(T7年)、中堅サラリーマン月給30-40円(T7年)であるから、経験なし、学歴なしの若者にとってほんとにボロイ商売であったであろう。

 しかし、そんな金も酒、女(男)、ギャンブルを覚えてしまうと学校へは行かなくなってしまう。これも、お水、セックス産業で稼ぐ現代の大学生、専門学校生と同じではないか。

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) 谷人生

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた)(1) 谷人生

『文芸倶楽部』大正2年(1913)11月号に掲載された、「路傍の流行唄」はバイオリン演歌全盛時代の密着取材記事である。当時の時代背景、演歌師の実態、曲目等がよく分かる。
大道芸通信 第114号資料編(編集発行 光田憲雄)から要約を転載させていただく。

<バイオリンとしわがれ声>
 縁日の夜とか、何か事あって群集のより集う所とか、または祭礼などに、露店も見世物の掛屋も出ていない空き地で、一人もしくは三四人の青年が破帽をまぶかにかぶってしわがれ声を張り上げ、バイオリンに合わして流行歌を歌っているのを諸君はしばしばみたであろう。しかしてその流行歌を歌う青年から、私どもは何々の苦学生である、学費を得んがために親不孝な声を出し、夜とはいえ皆さんのまえへこんな面をさらしているのである、よろしくご同情あってこの流行歌の本を一冊でも二冊でもお買い求め願いたい、というような意味を長々と聞かされたこともあろう。 
 かの青年たちは真に苦学生であろうか、夜一生懸命に声を嗄らしてもうけた金で、袴をつけて本包みをもっていずれかの校門をくぐるであろうか、これはだれにでも当然起こるべき疑問である。世には苦学生という美名の裏に隠れて、さまざまの悪事をなす者もあり、近頃、苦学生なるものに同情する人心のだんだんに減っていったのは悲しむべき事実である。果たしてしからば流行歌で口を糊している一団はどんなものであろう。

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) (2) 谷人生

<堕落生と苦学生>
 いわく苦学生である、いわく苦学生でないのである。つまり、苦学生もあるし、偽者もあるというのである。しかし、10人の内9人まで、否100人の内99人まで苦学生でないので、真の苦学生ははなはだ少ない。
 元来、この商売は堕落生が糊口に窮して始めたもので、追々類をもって集まる不真面目な連中によって、発展したものであるから、とっちかといえば、真の苦学生のほうが外様で、少ないのもあえて不思議ではないのだ。
 この一団は大道芸人などと一緒に見られて、ある特殊の約束のもとに香具師仲間へ入っている。したがって、仲間同士の話になると、香具師符牒を使っている。
 彼らの素性を洗ってみると、たいてい相当の教育あるものばかりで、中には地方の中学を卒業した者もあるし、東京の専門学校を中途退学したーーされたーーものもある。失恋の結果自暴自棄に陥ってこの仲間に入ったものもある。皆相当の教育あるがために、いうこと、することが無知無学な他の香具師とは、異なっていて、会って話してみると案外に感心することがある。目下、下谷山伏町という有名な貧民窟にいる斯界の親玉添田唖蝉坊のごときは、なかなかえらい男でちょっと普通人と違っている。

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) (3) 谷人生

<海老茶式部堕落の巻(松の声)>
 神長瞭月は青年倶楽部というものを組織して、やはりおのれの作歌を印刷したものを売らしている。本人の自家広告に、岩谷小波氏はお伽文学で大成した人である、自分は田舎から出て約10年の辛苦、赤手空拳よく俗謡をもって今日の成功を得たものであると吹いている。小波氏と自分を比較するところは大した度胸である。少年文学でもそれで成功したからエライ、俗謡でもそれで成功したからエライ、なんでも成功さえすればよいのだという意味らしいが、こうした自己広告はたまたまおのれの不明をあらわすもので、われらの眼からみれば唖蝉坊の方が一段上のように思われる。

 田舎出の女学生が都会の悪風に染みて、ついにある中学生と情交を結び、父母が汗水たらして得た金で学事を外に浮かれ歩く内に堕落したことが田舎に聞こえて学費の途が絶え、身の振り方を男に相談せんと訪ねて行くと男は既に身を隠している、時に早く人目を忍ぶ五月の腹、失望と悔悟とで到頭川へ投身して死ぬという、一條の極ありふれた物語を『人生わずかに五十年、妾(わらは)は今年十九歳、プラスマイナス差し引けば、エコール三十と一残る』てな風に作ったのが松の声(一名海老茶式部堕落の巻)である。松の声は題材が既に学生の好奇心を惹くにたる、それにすこぶる大甘にできているので一時は非常に歓迎されたものだ、今でも相当に売れているそうだ。

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) (4) 谷人生

<歌の種類と売行き>
 歌の種類は中々沢山あるが、大別すると比較的生命の永いものと流行歌の名にそむかぬごく短生命のものとがある。

 比較的生命の長いものは、有名な小説などを歌に焼き直したもの、即ち、不如帰の歌、己が罪の歌、金色夜叉の歌、想夫憐の歌、肉弾の歌・・・・などで、なかんずく不如帰の歌は、小説の不如帰が不朽の生命あるがごとく、ずいぶん古くから今だに生命を保っている。『・・・・ああ浪さんよなぜ死んだ、僕は夫の武男ぢやぞ』口語調の悲哀の胸迫る歌をよく耳にする。それから一世を騒がした事件を歌ったもの、即ち、野口男三郎の獄屋の告白、藤村操を歌った華厳の嵐などがそれである。

 パッと流行ってパッと消えるものには、二、三年前天下を風びした、マガイイ節、それから紫節、近頃流行ってもう下火になったドンドン節などがそれである。古いことを調べたらトコトットという喇叭節の流行ったこともある。

 さてこの売行きだが、比較的生命の長いものはどうしても一時にパッと売れない、流行歌は売れる期間が短いだけに、流行の最中となれば面白いほど売れる、それはそのはずであろう。マガイイ節が流行った頃、一人してある祭礼の日に十円以上売ったという話を聞いた。普通でも縁日などで三、四円の金を揚げるには大した骨ではないといっている。

路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) (5) 谷人生

<資本はいくらいるか>
 資本といったところで大したことはない、古くてもよし、傷んでいてもよいからバイオリンが一丁、バイオリンがなければ手風琴でもよし、明笛でもよい、歌に合わす事ができれば、楽器の種類は何でもいいのだ。それから歌の印刷物を買う金が四、五十銭あれば、それで今夜から商売ができる。

 歌を印刷したものは、一部三厘から五厘までで、際物(ドンドン節のようなもの)は高くて五厘、普通物(不如帰の歌のようなもの)は安くて三厘ぐらいで作者兼版元ー唖蝉坊、瞭月を指すーの所から買ってきて、それを客に売るときは、際物は一部三銭、二部五銭の割り、普通物は五、六部もいろいろ取り混ぜて八銭とか十銭とかで売る、もちろん客の希望によって一部だけでも売るが、そのときは一部二銭ぐらいで売っている。

 こんな具合だから、一晩に際物を百部売ったと仮定すると三円近くの金が揚り、原価の三十銭を差し引けば二円何十銭という利得となる、際物を百ぐらい売るのは易易たることで、その他の売上と合すれば、一夜に確かに三、四円の純益を得ることができる。しかし、このくらい売るにはどうしても三人がかりで、一人がバイオリンを弾き、一人が唄い、一人が歌の印刷物を売ってまわるという風に手分けしているので、一人の収入は一円なにがしとなる。それにしてものん気なボロイ商売ではあるまいか。

 でもし彼らにして標榜せる苦学を実行せんとすれば、できないことはない、それだけの余裕は確かにあるのだけれど、酒を飲み、怪しい女の媚を買いなどして、せっかく得た金を水にしてしまうのである。

以上が記事の要約である。 
レポーターの谷人生は添田唖蝉坊を高く評価しており、彼は富貴にこびず、栄達を願わず、苦労しただけあって義侠心があり、見栄を張る気はない。多くの無頼の住民から先生、先生と立てられる徳を持っているとまで書いている。自分の成功を自慢する神長瞭月に対しての評価は厳しい。

上野の山での花見の下見&大道芸


3月26日(土)、花見の下見をかねて行った好天の上野公園で大道芸や面白いものをみた。JR上野公園口を降りてからいたるところ警告の表示ばかりである。
発電機を使用したカラオケや楽器演奏の禁止、金銭の授受をともなう演奏、パーフォーマンスの禁止、席取禁止、道路上での宴会禁止、場所を占拠して席料を取ることの禁止等である。

寒桜だと思われるが、ソメイヨシノと違う種類の桜がメインの通りで既に咲いていた。その下では道路上で宴会禁止との標識にも関わらずもう酒盛り、宴会の最中であった。咲いていない桜の下でも既にシートを張って席取りをしたり、宴会が始まっていた。人出も多く、既に花見は始まっていた。ごみを捨てる場所は仮設トイレも既に完成している。

雪竹太郎が冬の間は寒いから裸にならずにビオラを弾いているとの情報を得たためぜひ見たいと思い野口英世像の近くへ行った。白鳥の湖まで弾いているとかのうわさ。しかし、暖かかったせいか裸で”考える人”、”円盤投げ”等の人間美術館を演じでおりビオラ演奏はなし。残念!
離れたところではフォルククオーレ集団10人ぐらいが笛と太鼓で踊りながら練り歩く練習をしていた。噴水の前では女の子が集団でストリートダンス、お金をもらわなければ何でもOKである。

また、東京国立博物館の方ではキリスト教の団体の炊き出しがあり、ホームレス100人以上がおとなしく座って賛美歌を歌ったり説教を聴いていた。電子オルガンとアンプもありかなり大きな音である。賛美歌でもある”星の界”(祈祷)が歌われていた。気が付くと周りにもホームレスがうようよいる。この曲は大好きでバイオリン伴奏で歌いたい曲の一つである。

月なきみ空に きらめく光  ああその星影 希望のすがた
人智は果なし 無窮のおちに いざその星影 きわめも行かん
(明治43年 教科統合中学唱歌)

来週週末は上野公園のどこかで仲間と花見だ。バイオリンで寮歌や荒城の月でも叫ぼう。

公開講座<バイオリン体操、ボーイング体操>に参加


クラシックのバイオリンなど習ったことのないゆめじの弓がよく飛ぶのをみかねて日弦協(JASTA)関東支部の公開講座を紹介してくれた親切な方がいた。
聴講料1500円で上手になるのならと2005年3月XX日に池袋東京芸術劇場大リハーサル室へ行ってみた。
キャッチコピーは<演奏技術を支える身体的基礎づくり、ボーイング動作を滑らかにするボーイング体操、バイオリン体操。演奏が楽になる音も良くなる !>である。ほんまかいなとつっこんでみたくもなる。
弦楽指導者協会の主催ということで参加者は指導者の先生方、生徒(小学生から年配者)がほとんどを占めているように思えた。

講師の神原 泰三は”ヴァイオリン体操”なる本も出している(写真)。バイオリンの経験は全くないが、インドで瞑想修行、合気道、気功を学び独自の体操を考えたとのことである。
テキストにはヒトの骨格、神経、筋肉標本が記載されており、科学的な説明だが途中から”気”の通りを良くするとか、ここからエネルギーが出るとかエネルギーをコントロールするとか、外側と内側にある腕のエネルギーラインとか、胡散臭くてついて行けなくなる?信じるものは救われる、上手になるのならなんでもいい。オーケストラの全員が演奏前にやれば観客にとってはラジオ体操をみるよりも面白そうである(演奏前3分間のお勧めコース)。

でも、この体操はリラックスしたり、肩こりには効きそうである。まあ、どんな運動にも準備体操と終わったあとの体操があるようなものである。
コンディショニング:首、肩、ひじ、腰をほぐす。ひざをほぐして柔らかくする。
1.指は弦を押さえたり、弓を持ったりするので握る方向が圧倒的に多い。その逆の動作、つまり指を外側に開く、親指を外側にはじく動作を繰り返す。
2.両手の指を組んで両手をひねったり、8の字運動をやると関節がやわらかくなる。
3.演奏は上半身だけでなく、腰やひざも使うので手を動かしながら腰、ひざを使って全身をくねくねさせ運動する。
4.顔をマッサージするおまじないもあり。

最後にいった講師の言葉はゆめじに対して宣告しているようなものであった。

”この体操は基礎的な演奏技術はあるが、身体的なことによりうまく演奏できない方が上手になるものです。演奏技術のない方はそれなりにしかなりません”残念!!!

ヒューマンヘルス研究所(代表者 神原泰三):結構高い授業料であるが上手になりたい人は多い!
http://members.jcom.home.ne.jp/human-health/ensou/vaiorin/index.htm

書生の必須アイテム 高下駄(たかげた)


書生姿といえば、高下駄である。小説「伊豆の踊り子」でも一高生が朴歯の高下駄で天城を登って来たとある。高下駄を履くと10センチ以上視線が高くなり世の中が変わって見えるような気がする。慣れるまで歩きにくく足の指が痛いがなかなか気持ちがいいものである。

現代の厚底靴(プラットフォームシューズ)も時代を超えて何度も流行を繰り返してきた。見下ろす快感とある種の優越感のせいであろう。

お祭り等で歌っているとわざわざきて”なつかしい、高下駄がいいね”とほめてくれたりすると複雑な気持ちだ。演奏とか歌とかもっとほかの事についてコメントしてほしいーーーー。
しかし、実際に高下駄をはいて生活するのは難しい。デイケア施設や舞台では木の床が傷つくのを防ぐために歯にガム(布)テープをはって演奏したりして気を使う。外は自由に歩き回れるがアスファルトやコンクリートの広場では歯がどんどん削れたり一部が欠けたりする。さし歯の寿命は意外と短いようである。高下駄は一番注目されるが、持ち運びが大変である。背負ったリュックのスペースの大部分を高下駄が占めてしまうので、歯を簡単に折りたためるような携帯式高下駄がほしい。

江戸時代は江戸では歯の高いものを足駄、低いものを下駄と呼んだ。京阪では歯の高いものを高下駄、低いものを差下駄と呼んだそうだ。

高下駄:歯の高い下駄、あしだ。高足駄。高歯下駄(たかばげた)。
朴歯下駄:厚い朴の歯を差したもので、旧制高校生が好んで履いた。
朴歯(ほおば):朴の木(ほおのき)で厚く作った高下駄の歯。また、その歯を入れた下駄。やわらかく丈夫で長持ちする。台は桐など別の材を用いる。

足駄(あしだ):雨降りなど道の悪い時に履く、高い二枚歯のついた下駄。 高足駄。 高げた。古くは歯・鼻緒のある板製履物の総称。

会津桐高下駄は東京浅草ひさご通り商店街「まつもと」で販売している(03-3841-2461)。

バイオリン演歌師4名が合同練習 2005

3月21日、都内某所で大正演歌愛好者が合同練習を行った。バイオリン演歌師4名、歌手3名が集まり、覚えていない歌は歌詞カードを見ながら大声で歌った。

みんなそれぞれに覚えた曲のキーが異なるので、合同演奏できない曲は歌うことに専念した。最初の曲は東京節、これはみな同じキーであり2番まで歌った。

戦友はゆめじはGmが好きだが、Amでやりたいということで原曲どおりAmで演奏した。次はかごの鳥でこれはDmで全員一致した。

次の船頭小唄(Am, Cm, Dm)と故郷(D, G)これらもみなキーが違う。船頭小唄は一番バイオリンが下手な方がCmで演奏するといって他の忠告を聞かない。Cmはバイオリンで演奏しにくいキーのひとつである。

残念ながらゆめじは自分のキーでの演奏以外はすぐにはついていけない。あと、かごの鳥の作曲者である鳥取春陽が作曲した”思い出した”を歌う。簡単でいい曲だ。小林旭も歌っていた。
 
  思い出した 思い出した  思い出した
  去年の 三月 花の頃
  あの時 あなたと 二人して
  楽しく あゆんだ 花の下

大道芸といえばテキヤ、テキヤといえは寅さん、寅さんといえばこの曲!最後は、定番の”男はつらいよ”を熱唱して終了となった。この曲はGで弾きやすいので覚えなければと思いつつまだ暗譜できていない。
バイオリン演歌師が4名、つまりバイオリンが4丁も集まることは非常に珍しいことだ(1年に数回?)。上手下手は別にして平成のバイオリン演歌師が増殖中である。

仲間の一人は町のバイオリン教室へ通っていて、4月のミニコンサートで子供たちに混ざって戦友と故郷を歌うとか。もちろん大正時代の書生姿の演歌師としてである。クラシックの教室では変り種として珍重されているらしい。

バイオリン演歌師:楽四季一生、帝大生ゆめじ、青空ぴーまん、生方早慶

バイオリン演歌 書生節 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師 帝大生ゆめじ

書生と学生帽


演歌師の必需品である学生帽を買おうと調べてみると、旧制高校の帽子と大学帽(角帽)があった。高校の帽子は昔かぶっていた高校の帽子と同じで白線が入っていて目新しさがない。絶対帝大型角帽を買って帝大生演歌師になることに決めた。この写真は国立大学型(帝大型)の学生帽である(半田帽子)。

今は国立といっているが、昔は官立といっていた(政府が設立)。府立、県立はそのまま現在でも使われている。1897年(M30)に帝国大学を東京帝国大学と改称した。以後あちこちに帝国大学ができて行く。明治30年は尾崎紅葉が読売新聞に金色夜叉を連載し始めた年である。

1.東京帝国大学(1877年設立)、2.京都帝国大学(1897年設立)、3.東北帝国大学(1907年設立)、4.九州帝国大学(1911年設立)、5.北海道帝国大学(1918年設立)、6.京城帝国大学(1924年設立、現ソウル大学)、7.台北帝国大学(1928年設立、現台湾大学)、8.大阪帝国大学(1931年設立)、9.名古屋帝国大学(1939年設立)

1947年(S22)に帝国大学令等が改正され、各地の帝国大学は改称し帝国大学の名は消えた。その後、1949年に新制大学へ移行し(学制改革)、名実ともに帝国大学はなくなってしまった。よって、帝大帽はもはや存在しない。早稲田等の私立大学は実際に今も角帽を売っていてだれでも(あなたも)本物を買うことができる(学生証不要)。

 私が学生の頃はまだ学生服で通学している学生がかなりいた。しかし、大学帽をかぶっているのは40名のクラスで1名のみであった。ただ女学生の関心を引くためのような気がした。そのうち2年生になるとだれも帽子をかぶらなくなった。

 昔の書生の典型的着物姿といえば、木綿絣に木綿の縞の袴か、無地の袴に高下駄、下に着るものはスタンドカラーシャツ(白)である。でも、「金色夜叉」の表紙の貫一は学生服姿の革靴でお宮を蹴り飛ばしていた(熱海の海岸お別れの場面)。

旧制の中学生はすべて学生服になっているのに、旧制高校、専門学校は学生服だけでなく、なぜまだ書生姿が残っていたんだろう(卒業写真はすべて学生服)。母に聞いてみたが、兄たちの寮生活のことはよく分からないそうだ。旧制高校の寮は、便所に戸はなく、大小便を窓からしたりして、何しろ不衛生で普通の人は病気になるといっていた。

「伊豆の踊り子」と出合った書生の服装


川端康成は第一高等学校時代に書生の典型的な姿(制帽、紺絣、袴、高下駄)で伊豆を旅行をした(大正7年秋)。そのときの体験からの小説がこの有名な「伊豆の踊り子」である。高下駄で天城峠を越えたとはーーーー

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。

私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。
ーーー中略ーーー
踊子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵型のりりしい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった。」

注:昔、下駄が若者の履き物として盛んだった頃、特に高下駄の歯はこのホオノキで作られたものがホオ歯の下駄として書生さんや学生さんに人気があったようである。

ああ踏切番 <碑文谷踏切責任地蔵尊>



東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切内で電車にはねられて死傷者がでた。手動式遮断機の操作を誤ったとのことらしいがまだ手動式遮断機があったとは驚きだ。担当者が利用者の利便性を考慮しすぎて事故が発生したのなら本当に残念である。碑文谷の踏切事故(大正7年)を思い出した。

演歌のなかに添田唖蝉坊の作詞作曲の名作”ああ踏切番”がある。ほとんど知られていない曲だが、現在われわれの仲間が非常に気に入って練習しているところである。約15分も続く長い歌(物語)であるがバイオリンの伴奏をつけるのに苦労している状態だ。完成したら聞きたいし世間に再度ひろめてほしい。

今から約90年前にも有名な踏切事故があった。大正7年5月19日(1918)、汐留発の下関行き貨物列車が品川を出てまもなく、碑文谷の踏切で人力車を跳ね、乗客は死亡、踏切番の二人は、責任を感じ、線路上に身を伏せ自殺した。事件は大々的に報道された。この事件は、低賃金で苛酷な労働を強いられる踏切番、管理体制、加えて社会全体の問題として話題となった。そして”ああ踏切番”の歌が誕生する。(碑文谷といっても品川区の東海道線踏切)

「あゝ踏切番」添田唖蝉坊作詩・作曲  「ああ踏切番」

20余年を碑文谷の 踏切番とさげすまれ 
雨のあしたも雨の夜も 眠る暇なき働きの
報いは飢えをしのぐのみ わずかに飢えをしのぐのみ
労力の価い安き世の 勤めの身こそ悲しけれ
己れ一人の身なりせば 何を嘆かんあゝされど
連れ添う妻や幼な児の 飢えを思えば胸裂くる
ほそぼそ立つる煙りさえ うすらぎ行くをいかにせむ

乱れみだるゝこの思い 解く術知らにうなだる 重き頭をさゝえつゝ 

思いは同じ同僚と 踏切守るや今日もまた 
なぐさめられつなぐさめつ 日毎夜毎のいと重き つとめの疲れ重なりて
殊に今宵は耐えがたな いま一汽車をつゝがなく
職務果たしてやすらはむ 今しばしなり今しばし
しばし暫しと堪え忍び 待ち待つ汽車のなどおそき

今か今かと来ん汽車を 待てる二人はわれ知らず
いつか睡魔の誘い来て あわれ夢路をゆきもどり 

可愛いの子らよわが妻よ つらき勤めの時は来し 出勤の時はまた来しと
出づれば妻は幼な児を 抱きて門に送り出て 夫を思い子を思う 涙にくもる顔あげて
忍びたまえよ辛くとも 恙もあらで在ましなば 今の辛さをいつかまた 寝物語りの時節も来む
やさしい言葉にはげますか 世界はひろしひろき世に 虐げられて泣く人の われらのみにもあるまじき あゝ嘆くまじ嘆くまじ

こゝろ安かれわが妻よ されば帰りを待てよかし 答えはしつれ何となく あとに引かるゝうしろ髪
心は残るわが家を 顧みがちに立ち出でて 進まぬ足を進むれば 進まぬ足のいと重し
一足ふみては子を思い 二足妻を思いつつ 行きては戻り戻りては またも見合わす顔と顔

とどろとどろと一筋に 鉄路を走る汽車の列
あわや間近く迫れるを あやうし夢は尚さめず
砂吹く風の忽ちに おどろき見れば凄まじや 
突き来る汽車は眼のあたり 鉄路を人の血に染めぬ 
二人は色を失いて 己が職務の怠りに 
人をあやめしその罪の のがれ難きを如何にせむ 
一人の命とつりがへに 二人の命捨つるより 
外に術なし諸共に 死なんの覚悟誰か知る 

あけ方近く月落ちて 雲間を洩るゝ月影の 
消えゆく空をふるわしつ あなけたたまし汽車の音

あゝ踏切番『AZENBOの世界』 歌:津田耕次:https://www.youtube.com/watch?v=DsoyeaZBZYk

天龍寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」(品川区南品川):
責任を感じて自殺した踏切番人を哀れに思いこの地蔵が建立された。

品川第二地域センターからのおしらせ ◆地域の昔話 26◆ 2007年9月5日 ◆悲話◆

 ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王道といわれていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入口の脇に、大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」といわれている。

 大正七年(一九一八年)五月一八日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王道に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した。その時当直の踏切番は二人いた。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因だった。当時踏切番は激務にもかかわらず朝7時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていた。

 しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。

 天龍寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切番の供養のために造立されたものである。耳に手を当てて列車の音を聞いているのであろうか。

「郷土目黒」(第十五輯):「読売新聞」の記事を採録。

通行人を轢死せしめて 踏切番の抱合自殺

  □昨晩一時南品川の悲惨事  □職責を感じ自分たちも轢死

 十九日午前一時五分府下南品川三ツ木九百四十七新井由三郎氏令弟三井銀行新井慶蔵(三四)氏が、芝区君?町二林たか方車夫横山浅次郎(四三)の俥に乗り、府下南品川五八0番地先の踏切を通り抜けとせし際、同午前一時。

  品川駅発 の甲号貨物列車に触れ、車夫は無事なるを得たれども慶蔵は左肺、左足、右足に重傷し、車夫の急報により品川署員出張戸塚病院にて応急手当を加へしも、午前十時三十分に至り

 遂に絶命 せり。然るに当時の踏切番人は神奈川県川崎新宿須山由五郎(四三)、同橘樹郡六郷村元八幡塚一0六一竹内芳松(四五)の両人なりしが、右椿事の起りし時、踏切の開閉の開かれ居りしより両人はその責任を痛感し、踏切を去る南四分の一哩の地点に於て

 相抱いて 同二時八分品川発六百一号列車の進路に飛び込み決意の轢死を遂げたり、芳松は明治二十九年線路工夫に、大正五年十二月踏切番となり、現在日給六十六銭を受け居れり。

 精勤家にて、危険を知りながら開閉柵を上げありしは、居眠りなどの過失によるものには非らざるべしとは鉄道院側の観察なり、即ち事故のありし三十分前までは、十五分おきに電車が運転し居り、開閉柵の上り居りしは何故なりしか、これは疑問なるも

品川イラスト道中記 碑文谷みちを歩くを参考

大正演歌,バイオリン演歌,書生節

大正時代は阿波踊りにもバイオリン!


バイオリンは演歌師だけものではなかった。信じられないかも知れないが、あの阿波踊りにも、編み笠、着物に袴でバイオリン隊が登場して流していた。

阿波踊り連の最後尾に陣取り、ぞめきの軽快なリズムで踊り子を浮かれさす鳴り物。三味線、大太鼓、締め太鼓、笛、鉦(かね)等がある。木魚をたたいているのを見たこともある。鳴り物の構成は時代により変化してきたらしいがなんでもありである。
ぞめき:さわぐこと、騒ぎ。うかれさわぐこと。

 アメリカのカントリーソングや、南アメリカのフォルクローレでもバイオリンが必ずといって入っている。大正時代はバイオリンはもう西洋の楽器といって差別するのではなく、バイオリン演歌や民謡に取り入れられていたのだ。もう一度、クラシックでないバイオリンが平成の世に復活することを願って頑張りたい。

「大正時代になると鳴り物にも変化があり、いろんなものが使われ始めた。もちろん三味線や鼓が主体ではあったが、大正から昭和初期にかけてはバイオリンやマンドリン、ハーモニカ、クラリネットといった西洋楽器が広く用いられた。
 バイオリンと尺八の合奏もあった。その時代に流行したものは、すぐに阿波踊りに取り入れられていることが分かる。楽器の変化とともに踊りそのものも多様化していった。
 戦後は一貫して“見せる”踊り、“見る”踊りの道を歩んできたのに対し戦前、なかでも明治時代は“参加する”踊りが主体で、踊り子の熱気は大変なものだった。」
「昭和に入ってもいろいろな楽器が使われている。三味線や太鼓、尺八が中心であることに変わりはないが、新聞によるとバイオリンやハーモニカは相変わらず使用された。そのほか鉦、鳳尾琴、バラライカ、四つ竹、しの笛、タンバリン、ビールの空き瓶、金だらいなど多彩だ。昭和3年(1928)年の御大典奉祝踊りからは大太鼓が顔を見せ、観客を驚かせた。」
バラライカ:三弦撥弦楽器、共鳴胴は三角形で指先で弾く。ロシア、ウクライナの民族音楽に使用。
徳島新聞<新聞にみる阿波踊り>

昔は服装もばらばらで他人より目立つ服装をしたりして揃いの浴衣ではなかった。男も女もライバルより目立つ服装と踊りでなきゃ意味がなかった。ダンダラばっち姿、法被姿で伝統的でないジャズ化したダンスも登場していたらしい。

<波瀾万丈! 明治・大正の家庭小説展> (弥生美術館) 2005


2005年3月、挿絵画家・高畠華宵をはじめとする明治・大正・昭和の挿絵画家の作品が展示されている弥生美術館を訪問した(今回で2回目)。隣には竹久夢二美術館が併設されておりそちらにも入場できる(セノオ楽譜の表紙の絵もあった)。

お目当てはのぞきからくりとバイオリン演歌の外題である家庭小説、不如帰(ほととぎす)と金色夜叉の資料である。全国の女性の涙をしぼった波瀾万丈の小説の挿絵・装幀本口絵・新聞切抜き・絵葉書・新派劇の絵看板・辻番付などの資料が展示されていた。現物は初めて見るものばかりで感激した。実はのぞきからくりやバイオリン演歌をやっていても本物は見たことがなかった。
写真:武内桂舟・画『金色夜叉』前編木版口絵 明治30年

不如帰も金色夜叉も新派悲劇となって上演され、また縁日ではのぞきからくりとして公演された。

さあ、いらっしゃい! はい、のぞいて、のぞいて!
上の穴が大人用、下の穴は子供用。中は歌に合わせて変わります。今日の外題は新派大悲劇、不如帰!浪子と武男の悲しい恋の物語。始まるよ、始まるよ。
のぞきからくり資料:http://www.geocities.jp/teidaiseiv/retrozone/retro014.html

もちろん両作品とも映画にもなっている。3月20日(日)午後6時から無声映画の「不如帰」と「己が罪作兵衛」が弁士付きで開演される(定員に達したため申込み締切り)。

両作品の歌も演歌師が歌って大評判になったが、バイオリン演歌として現在まで歌われているのは新金色夜の歌(1917, T6)のみである。

あと誰の作品だったか忘れたがバイオリンを弾いている着物姿のかわいい少女の絵が2点展示されていたが、その絵の絵葉書は売っていなかった。残念である。

明治30年頃から、封建的家庭における女性の悲劇や夫婦・親子の愛憎などをテーマとしたいわゆる「家庭小説」が流行した。幅広い読者層、特に女性の読者を対象に各新聞に連載され、熱狂的に迎えられた。家庭小説のはしりといわれる明治期の大ベストセラー小説は尾崎紅葉「金色夜叉」と徳富蘆花「不如帰」である。
人気挿絵画家によってつけられた挿絵には、薄幸の美しいヒロインが描かれ、数奇な運命をよりリアルに引き立てた。また、家庭小説は、すぐさま新派劇となり、新派の発展と隆盛にも大きく貢献した(弥生美術館資料)。

<波瀾万丈! 明治・大正の家庭小説展>
会 期: 2005年1月4日(火)~3月29日(火)
開館時間:午前10時~午後5時(入館は4時30分まで)
休館日:月曜日(祝日にあたる場合は翌火曜日)
料金: 一般800円/大・高生700円/中・小生400円(竹久夢二美術館にも入場できる)

弥生美術館:http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/index.html
〒113-0032 東京都文京区弥生2-4-3  TEL:03(3812)0012

演歌師のバイオリン演奏技術レベルは?

演歌師は当時の書生(学生)のアルバイトであり、本格的にバイオリンを習った人はいなかったはずである。当然、われわれと同じく下手である。
まず、下宿で歌を暗記する。次に、今なら人のいない近所の公園等で早朝や夜間に練習するのであろうが、当時は上野の山、青山の練兵場、戸山の原などの人通りのない所で懸命に練習したそうである。
そうして練習ができると、先輩について大道へ歌本を売りに出るのであるが、最初は声が震えたり、歌が詰まったりしてしまう。人前で怒鳴りたてて歌えるようになるには1ヶ月程度では到底無理らしい。

演歌師のバイオリン演奏技術をまとめると下記のようなものであろう(あくまでも個人的な見解)。

演奏の心構え:
あくまでも学費や生活のためのアルバイトでやっていることを自覚する(音楽のプロではない)。バイオリンは客寄せのための小道具であり、歌やそれにまつわる悲しい物語をいかに聞かせるかが重要である。

1.なるべく開放弦(0)を使う。
2.E線、A線、D線を使う。(G線は弾きにくいので使わない)
3.左手は押さえやすい指の形(FD)を使う。左手小指(4)ではなるべく押さえない。
3.歌のキーにバイオリンを合わせるのではなく、弾きやすいバイオリンのキーに自分の声を訓練して合わせる。
4.ビブラートは使用しない。バイオリンが歌うのではなく、演歌師が感情をこめて歌い上げる。バイオリンはあくまでも伴奏楽器であり、バイオリンソロ演奏ではない。
5.歌い始めやさびの部分、終り等に重音を入れたりして大道で注意を引く。また、歌っていないときに装飾的伴奏を入れる。
6.当然第一ポジション(nutに近い位置)を使用する。
7.その他 

なんだ、下手なだけじゃないかと思われるかもしれないが、その通りなのである。
演歌はAmやCmの曲が多いがすべてGmやDmにして開放弦を使う。左手の指が押さえやすいDやGの曲は大歓迎である。

また、気がついた項目があれば追加する予定である。
あ! 苦手なAmのスケール練習をしなくてはーーーー

書生とは何者か 学生・生徒・学徒


大正時代の演歌師は街頭で、書生の姿をしてバイオリンを弾きながら歌を歌って歌本を売るのが定番である。

代議士や成功した実業家の家に住み込んでいる書生、バイオリン演歌師としてアルバイトをしている貧乏書生等いろいろあるが、書生の意味が今ひとつはっきりしないので辞書で確認してみた。書生と学生は同じ意味か。
現代では「学生」が一般的であり、「書生」はほとんど死語と思われるが、辞書には書生を含む用語がかなりあった。当然、あまりいい意味でないものが多い。
(参考:大辞林、大辞泉、広辞苑)

書生:
1.学問を身につけるために勉強をしている人。勉学中の若者。学生。明治・大正頃の用法。
2.他人の家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する者。「書生を置く」
青書生:
年が若く、学問や技芸などが未熟な書生。また、学生を軽蔑していう語。
書生気質:
学生特有の、遠慮がなく明朗な気質
書生論:
理論や理想に走って、現実をわきまえない議論。
書生っぽ(しょせいっ‐ぽ):
書生を軽んじていう語。しょせっぽ。
貧書生:
貧乏な書生。貧生。バイオリン演歌師の苦学生もこの貧書生か。
「―が退屈な仕事の暇に取り交わす雑談の片端にも」〈佐藤春夫・晶子曼陀羅〉
白面の書生(はくめんのーー):
〔「晋書(高陽王隆伝)」「宋書(沈慶之伝)」〕顔の青白い若者。年少で、経験の乏しい書生。青二才。
書生部屋:
家事手伝いの書生のために充てられた部屋。来客取次ぎのため多く玄関のわきに設けられた。
書生芝居(壮士芝居):
明治中期、自由党の壮士や青年知識階級の書生が、自由民権思想を広めるために始めた演劇。明治二一年(1888)に角藤定憲(すどうさだのり)、同二四年に川上音二郎が一座を興した。のち、新派劇に発展。
書生羽織(しょせいばおり):
普通より丈の長い羽織。明治中期以後、書生が用いて一般にも流行した。
書生節:
明治六年(1873)ごろからはやりだした流行歌。「書生書生と軽蔑するな、末は太政官のお役人」が原歌。「書生書生と軽蔑するな、大臣参議もみな書生」等。
当世書生気質:
坪内逍遥の小説。明治一八~一九年(一八八五~八六)刊。小町田粲爾(こまちださんじ)という書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
寧ろ百夫の長と為(な)るも一書生と作(な)るに勝れり:
《楊烱「従軍行」から》一生を学問に費やすより、たとえ百人の長でも軍人になるほうがよい。逆説的に用いる言葉。

学生:
学業を修めるもの。主に大学で学ぶ人。
学生服:
男子学生の制服。1886年(明治19)、と東京帝国大学が定めた黒地詰襟、一列ボタンの上着と揃いの長ズボンのスタイルを起源としている。その後全国の学生、生徒に普及した。


<学生・生徒・学徒 児童>
「書生」は今の「学生」に相当か。児童と生徒と学生が厳密に区別されることはあまりないが、法律では区別されている。

学校教育法では、初等教育を受けている者(小学校・特別支援学校の小学部に在籍する者)を「児童」といい、小学生は「児童」。
中等教育を受けている者(中学校・高等学校に在籍する者)を「生徒」といい、中学生・高校生などは「生徒」。
高等教育を受けている者(大学・高等専門学校に在籍する者)を「学生」といい、短大生・大学生・大学院生・高専生などは「学生」。

その他、専修学校・各種学校に通う専門学校生(専門学生)などは「生徒」という。
同じ3年制の看護学生でも看護短大なら「看護学生」で医大付属の看護専修学校なら「看護生徒」となるのか。

就学前教育の段階にある幼稚園児や保育園児は「幼児」という。

児童:
児童福祉法、児童虐待防止法、児童買春・児童ポルノ禁止法、児童の権利に関する条約では、満18歳に満たない者。道路交通法では、6歳以上13歳未満の者。。

学生証・学生服・学割(学生割引)などは大学生に限らず、中学生や高校生にも用いられる。

言葉の意味としては、児童は子供、生徒は学校で教育を受ける者、学生は学業を修める者のことをいい、言葉の意味と法律上の定義は異なる。このため法律と関係のない場面で使用する際は、学校・課程に合わせて児童・学生・生徒を使い分ける必要は特にない。

学徒:学生と生徒

学徒出陣
第二次大戦末期の昭和18年(1943)以降、徴兵猶予を文科系学生については停止して、20歳以上の学生を入隊・出征させたこと。(同じ歳でも社会で働いていたからといって「社会人出陣」とはいわない)

学徒動員
日中戦争以後、国内の労働力不足を補うために学生・生徒を工場などで強制的に労働させたこと。

神川 仁


神川 仁(かみかわひとし)さんは学校職員でもちろんアマチュアのバイオリン演歌師である。

大きな紙にタイトルだけ30曲分を書き客からリクエストをもらってバイオリンの弾き語りを行っているのが特徴である。あちこちに出没して投げ銭を稼いでいるようである。

どこでも時間があればマイクなしで街頭で歌い続け、しっかり投げ銭を稼ぐ昔ながらの演歌師である。
写真は横浜野毛の「横浜にぎわい座」前

一緒に歌ったこともあるが、珍しいことに彼は「ああ玉杯に花受けて」を短調でなくて長調で歌っている。たしかに作曲された当時は長調だったが---------

のんき節動画: http://youtu.be/jeHKl9ny0Gs


バイオリン演歌 大正演歌 書生節 昭和歌謡 Violin Fiddle 昭和演歌師 平成演歌師

壮士節、オッペケペー節、書生節、バイオリン演歌の変遷

バイオリン演歌が出現するまでの演歌の変遷について簡単に解説する。

演歌:
演歌の「演」は演説の「演」である。演歌が生まれたのは、明治20年頃で当時盛んだった自由民権運動の産物である。街角に立ち、演説を唄にして七五調で唄ったのが始めである。当時唄っていた者は民権論者の壮士と呼ばれた人たちなので彼らが唄う唄は「壮士節」といわれた。自由民権思想を広める目的で始めた素人演劇が壮士芝居である。  

オッペケペー節:
川上音二郎が唄って一世を風靡した、今でいえばその時の政治や社会を風刺したラップである。陣羽織に後ろ鉢巻、日の丸の扇子をかかげた出で立ちで唄い大評判になった。100年前の声が録音されて残っている。
「権利幸福嫌いな人に自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい。オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポ」
明治33年(1900)にパリ万国博覧会の会場にて公演。(甦るオッペケペー1900年パリ万博の川上一座 CD 東芝EMI)

書生節:
明治の中ごろから学問を志して東京へ出てくる若者が多くなった。地方より上京し勉強する苦学生を歓待する風潮もあり、演歌は学資をかせぐための書生のアルバイトとして夜間にできることから都合がよく、苦学生の演歌師が増えた。実際には堕落学生、てんぷら学生が多かった。この頃から演歌師が袴をはく習慣ができたらしい。      
添田唖蝉坊は民衆の抵抗詩人であり、金権政治や日清・日露の戦勝におごる世相を風刺し、皮肉った。ラッパ節、マックロ節、のんき節などの歌本が飛ぶように売れた。今流にいえば、自作自演の反戦・反体制、あるときはコミックフォークシンガーであった。

バイオリン演歌(大正演歌):
明治43年(1910)頃、演歌師、神長瞭月がバイオリンを独学で学んで演歌の伴奏楽器として初めて使用した。「松の声(女学生堕落の歌)」を歌い人気が出た。活動写真(無声映画)で楽隊が伴奏に使っていたバイオリンが小さくて軽く持ち運びに便利、その上人目も引くことができると考えた。集客力を高めるためにバイオリンでメロディや重音を出して歌った。演歌師は歌本を売るのが目的であったが、バイオリン演歌師はそうでない演歌師と比較して本の売上が数倍に上がったという。

そして、演歌といえば、書生姿でバイオリンを持つスタイルが定着した。勉学のために学費を稼ぐ苦学生として同情させて歌本を売っていたがほとんどは堕落学生であった。また、当時はバイオリンのことをオリンといっていた。
バイオリン演歌師は門付け芸のように歌を歌って金をもらう芸ではなく、街頭や縁日で歌本の販売促進のために歌を歌った商人(あきんど)、大道香具師(やし)である(てきやの部類)。

どんな種類の学校に通学する学生が多いかというと、多くは専門学をやっている学生が多数を占めていた。正則英語学校(正則学園高等学校)、国民英学会、研数学館(名門予備校だったが予備校から撤退、本館は大正大学が使用)、工手学校(工学院大学)、鉄道学校(岩倉高等学校)、慶応、早稲田、明治、法政大学などの学生であった。( )は現在の状況。
のんき節を歌って有名になった演歌師、石田一松は法政大学をちゃんと卒業し、戦後は衆議院議員となったタレント第一号である。

演歌師「神長瞭月(1888~1976)」 https://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/25381662.html
添田 唖蝉坊と神長 瞭月 大衆音楽の殿堂 https://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/63984728.html
石田一松(1902~1956) タレント議員第一号
https://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/29105797.html

バイオリン演歌は昭和初期まで続いたが、バイオリンは重音のみで和音が出せないため、その後演歌の伴奏楽器はご存知のようにギター、アコーディオンに変わっていき、バイオリンは消えていく。

書生節・バイオリン演歌・明治大正演歌の現役演歌師たち(Youtube動画)
https://www.youtube.com/playlist?list=PL431C19587E1DE2FA&feature=mh_lolz

帝大生 Welcome to Retrospective zone:
http://www.geocities.jp/teidaiseiv/retrozone/retro01.html

バイオリン忍者&バイオリン力士(ギター侍のパクリ)


ギターではなく、バイオリン弾き語り芸人がついに登場した。笑いの金メダル( 金曜21:00、テレビ朝日)という番組である。
忍者の格好をしたカンニング竹山があからさまなギター侍のパクリである「バイオリン忍者ター坊」としてバイオリンを弾きながらユニークなフレーズを連発する。
竹山は本当にバイオリン経験者なのか、特技なのか、バイオリンの技術はーーー、微妙とのうわさである。

きーきーぎこぎこーー
拙者 バイオリン忍者でござる
きーきーぎこぎこーー
ーーーーの巻
残念でござる!
忍忍(にんにん)!
http://asahi.co.jp/waraking/warasupo/ws34/ws34.html

また、力士の格好をしてバイオリン力士もやるとのことである。

バイオリン力士 土俵入りでごわす
残念でどすこい
ただいまの決まり手はーーーーー
http://asahi.co.jp/waraking/warasupo/ws38/ws38.html

もっともっとバイオリンがクラッシクだけでなくギター並に庶民の楽器になってほしい。明治大正時代のバイオリン演歌も唄本の売るための大道芸だったのである。

小説”金色夜叉”はパクリか? 金色夜叉の種本が発見される!


明治時代は今ほど知的財産、著作権等に対して厳しくなかったようである。外国の面白い小説があるとそのアイデアを借用して小説を書いていたらしい。バイオリン演歌も似たようなもので、ある曲がはやるとすぐそのメロディーを借用して新しい歌詞でどんどん歌が作られた。最初にできた金色夜叉の唄や男三郎の唄(ああ世は夢か幻か)も美しき天然のメロディーを借用している。現在歌われている金色夜叉の唄(大正6年)は宮島郁芳/後藤紫雲の作詞作曲のものである。

明治の文豪、尾崎紅葉が貫一・お宮の愛憎を描いた小説「金色夜叉」(1897から読売新聞連載)が、当時イギリス、アメリカで人気のあった女性向け通俗小説シリーズの1冊「Weaker Than a Woman(女より弱き者)」を種本にして書かれたことが堀啓子(北里大講師)の調べで分かった。著者のバーサ・M・クレーは当時の人気作家で、英米の男女数人の共同筆名という。1880年代から発行された。値段は10セント(1ダイム)で「ダイムノベル」と言われた大衆向けの本である。

尾崎紅葉はこのストーリを日本に置き換えて全国の女性の心をとらえた。
”女より弱き者”でお宮に相当するヒロインはバイオレット、貫一は弁護士フィリックス、大金持の銀行家、富山は大富豪の准男爵オーウェンとなっている。美しい両ヒロインとも恋人の愛情を捨てて財産家との結婚を選ぶ。お別れの場面は、熱海の海岸とライラックの樹のそばという違いこそあるが、ともに月光の降りそそぐなかで,恋人に別れを告げている。
恋に破れた貫一は何もかも捨てて金の夜叉(高利貸し)となり、フィリックスは仕事の鬼になるという展開である。

「金色夜叉」の冒頭で富山がダイヤの指輪をきらめかせて登場する場面で娘たちが色めき立ち、男たちがねたんでいる場面と同様に、バイオレットは「素晴らしいダイヤモンド!」と感嘆し、フィリックスは「なんていやなやつだ」と思う姿が描かれている。

あと、朝鮮にも朝鮮版「金色夜叉」があった。パクリのパクリ?

小説「長恨夢」は趙重植が1913年に毎日申報に連載したもので、演劇、映画などにもなり当時の朝鮮で人気があった。現在の韓国でもよく知られている。

「長恨夢」の舞台は平壌であり、「熱海の海岸」は「大同江河畔」に置き換えられているが、あらすじはほとんど「金色夜叉」と同じである。

<小説「長恨夢」と小説「金色夜叉」 翻案小説 パクリのパクリ?>
http://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/62899298.html

朝鮮の小説「長恨夢」は趙重植が1913年に「毎日申報」に連載したものである。


女より弱き者
著者: バーサ・M.クレー /堀啓子
出版社:南雲堂フェニックス
発行年月: 2002年 12月
本体価格:2,800円
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31061992

無声映画上映会 3本立 &lt;千駄ヶ谷社教館まつり&gt;


無声映画上映会 3本立 
千駄ヶ谷社教館まつりで初めて16mmフイルムによる弁士付き無声映画をみた(写真はチャップリンの冒険)。
中央にスクリーンがあり、その向かって左側に弁士用の演台がある。映画は大正から昭和初期の作品であった。渋谷区長をはじめ警察署長等の招待客もおり、まあまあ観客は入っていたがやはり60歳以上の年配者が圧倒的に多かった。司会者の女性は親に連れられて70年前に横浜で無声映画をみたといっていた。

弁士の口演は現代的なアドリブを入れることができ、落語等の話芸と同様に時代を通して生き続ける可能性はある。しかし、バイオリン演歌より映写機を準備したりして設備が大変である。のぞきからくりのように博物館でしか見ることができないということにはならないことを望む。

”旗本退屈男”はチャンバラで確かに子供だけでなく大人でも面白い娯楽作品である。最後は危機一髪、どうなるのかというときに”ちょうど時間となりましたーー”という設定である。講談、浪曲の最後と似ている。名弁士松田春翠の活弁が入った活弁トーキー版であった。

私としては、大正14年(1925)製作の喜劇”虚栄は地獄”が80年後の現代の男女でも変わっておらず一番面白かった。お互いに職業を偽り結婚した新婚夫婦の顛末を喜劇タッチで描いた作品である。
夫は丸の内勤務の革製品を扱うエリート社員で妻は重役秘書であるとお互いに嘘をついて甘い新婚生活を送っていた。ところがある日、夫は丸の内の靴磨きで妻はバス運転手の秘書、つまりバスガールということがばれてしまう。ドタバタのあと、職業に貴賎はないとお互いに謝ってハッピーエンドとなる。
現代でも、男女がお互いに見栄を張り、またそれを見抜くことができずに結婚していく。
もちろん、私の場合もそうであった。確かに見栄を張り続けることは地獄である。
あと、無声映画の楽団のバイオリン楽士がアルバイトでバイオリン演歌師たちににバイオリン演奏を教授したとの記事をどこかで読んだことがある。

2005年2月27日(日) 渋谷区千駄ヶ谷社会教育館
無声映画上映会  弁士 片岡一郎(20代の若手弁士 マツダ映画社)
虚栄は地獄(15分)    1925年(T14)
旗本退屈男(15分)    1930年(S 5)
チャップリンの冒険(20分)1917年(T 6)アメリカ 

マツダ映画社:http://www.infoasia.co.jp/subdir/matsuda.html
<無声映画解説>
日本で映画が作られるようになったのは1899年頃からである。そして最初の成功したトーキーが作られたのは1931年である。ただし、トーキーの製作は技術的にも資本的にも容易でなく、また日本中の映画館がすべてトーキーの設備を持つようになるのも簡単にはすすまなかったので、製作される映画のほとんどがトーキーになるのは1935年頃である。

行燈(あんどん):
弁士の名と上映作品名を表示する。中に電球が仕掛けられており、上映中の暗闇でもわかるようになっている。
楽団:
活動写真館には数名の楽士による専属の楽団がいた。館によって楽器の構成や人数の違いはあったが、ピアノ、ヴァイオリン、トランペット等の洋楽器と太鼓、三味線などの和楽器で、和洋楽団のアンサンブルを構成していたというのが、無声映画期における伴奏音楽の特徴である。何の曲を伴奏に使うかは、楽長の裁量で決まっていた。

プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

月別アーカイブ

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR