宵待草楽譜 竹久夢二


竹久夢二作詞、多 忠亮作曲の宵待草の楽譜である。大正7年5月(1918)に長野県の富士見高原で作曲されたといわれている。
この楽譜の表紙はもちろん竹久夢二の描いた女性である。

待てど暮せど
来ぬひとを
宵待ち草の
やるせなさ
こよいは月も
出ぬそうな

セノオ楽譜:
妹尾幸陽が明治43年より発行を始めた楽譜集でその数は1000曲以上にも及んでいる。 その内で、夢二は大正5年より昭和2年までの12年間に、280曲以上もの表紙絵を手がけた。

竹下夢二専門ギャラリー 港屋: http://www.yumeji-minatoya.co.jp/s-5.htm

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大正時代のバイオリン楽譜



演歌師が路上で販売する唄本以外に流行歌の楽譜も発売されるようになった。
一般大衆が演奏する楽器と言えば、安価なハーモニカが主流だったようである。もちろんバイオリンの楽譜も発売されていた。使っていたのはお嬢様などで演歌師には関係ないものであったであろう。

これはセノオのバイオリン楽譜(大正9年 竹久夢二・画)である。(電通古今東西広告館大正館より)
モツアルトのミヌエット セノオ音樂出版社 
(メヌエットではなく、minuetは発音どおりミヌエットとしている)

もう一つの楽譜はショパンの曲であるがセノオ楽譜ではない。(ショパンの本棚より)
泰西名曲楽譜 第三編ヴァイオリン曲・ノクターン第二番・斎藤商店出版部・大正11年

セノオ楽譜:
セノオ楽譜とは、西洋音楽の普及に努めた、妹尾幸陽が明治43年より発行を始めた楽譜集でその数は1000曲以上にも及んでいる。 その内で、夢二は大正5年より昭和2年までの12年間に、280曲以上もの表紙絵を手がけた。
題名のレタリングを含め、グラフィックデザイナーとしての才能が最も発揮された作品群となっている。 また、夢二自身の作詩によるものが24曲含まれており、中でも有名なのが大正7年に発表された「宵待草」である。

竹下夢二専門ギャラリー 港屋: http://www.yumeji-minatoya.co.jp/s-5.htm

鹿鳴館時代のバイオリン演奏


一般庶民にはほとんど関係ないが、文明開花の象徴といわれた「鹿鳴館」でのバイオリン演奏の記事があるので紹介する(「東京日日新聞」(現在の毎日新聞の前身))。

 まだバイオリンでは読者は理解できないためか胡弓(バイオリン)と記載し、後は胡弓とのみ書いている。
 レメンニー氏は絶技の胡弓(バイオリン)、その技芸の達人たる容貌を備えたりとのこと。
 また、日本人の少なかりしは,未だ洋楽の耳に適するに至らざるが故なるべしと書いてあるが、その後、20年経って神長瞭月の松の声(女学生堕落の歌)がバイオリン演歌として大ヒットする。

清雅鮮麗にして壮観,煉瓦造りの二階建て〔明治16年11月30日時事〕

 鹿鳴館 一昨日開館式を行いたる内山下町の鹿鳴館は,明治十四年の始め頃より,外務省の監督にて建築に着手し,このほどようやく落成したり。総建坪四百余坪にして,二階造りの煉瓦家なり。
 庭廻りなどもいと手広く清雅鮮麗愛すべし。一一略一一正面の楼上に踏舞室あり,その左右に客間あり,楼下の東側に食堂あり,楼下の西側北の極端に球突部屋あり。その他寝室,応接所,湯殿等を合わせ,部屋の数すべて四十余あり。館内の装飾美を尽し,工夫を尽し,中し分なし。建築の費用は最初十万円位の見込みなりしが,追々に増して落成までには十四万円余に上りたるよし。(略)

バイオリン演奏会に満場魅了〔明治19年8月12日東京日日〕

 鹿鳴館の奏楽 有名なるレメンニー氏は,一昨十日の夜を以って,その絶技の胡弓(バイオリン)を鹿鳴館の楼上にて奏したり。同夜は午後七時三十分を以って奏楽を始めたり。炎暑の候なれども
晴天と云い,殊に同夜は涼風も爽快なりければ,聴衆の多き三百余人に達し,席上また余地なきに至れり。ただし外国人の多かりし割には日本人の少なかりしは,未だ洋楽の耳に適するに至らざるが故なるべし。

 第一席はリュクストーン氏の洋琴(ピアノ)の奏楽にて,その妙なる,実に聴衆の感嘆を博したり。氏は未だ壮年の人と見受けたるが,その技芸の超越なるはひとしおなりき。

 右畢りてレメンニー氏は胡弓を携えて出席し,拍手喝采の中に会釈したり。その人は中年を越えたる年輩にて,頭は半禿げ眼光鋭くして,一見してその技芸の達人たる容貌を備えたり。一一略一一

四十三銀行岸和田支店(大正8年、1919年)&バイオリン演歌師たち



 紀州街道の魚屋町角に、赤いれんがと花こう岩のツートンカラーの洋式建造物がある。成協信用組合岸和田支店である。広い内部には柱一本もない。いわゆるつり天井である。

 馬力車で資材が運びこまれる。丸太を何本も組み合わせて足場を作り、ロープでれんがや石をつり上げる。スコップで砂や水を混ぜ合わせてセメントを作る。小学生だった私は、まるで自分の家が出来上がっていくような楽しみで、毎日、工事を見ていた。

 当時、和歌山へ通じる道は紀州街道一本しかなく、古城川に架かる欄干橋付近は、岸和田ではいちばんにぎやかな商店街だった。古城川の下手には「かき舟」が浮かび、左手に検番(芸者さんの事務所)があった。一年ほどかかって、大正8年5月、日本貯蓄の建物が出来上がり、商店街に花を添えた。夕暮れになると、銀行の角でヨレヨレのはかまをはいた二人連れの演歌師が、バイオリンを持って、独特のしわがれた声で
 ”熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ…”
 などの歌を演じ、仲間の一人は聴衆の後ろに回って薄っぺらな本を一部5銭で売っていた。各商店も10時から11時ごろまで店を開けていたし、芸者さんを乗せた人力車も走るし、今思うと懐かしい。

文:池宮清一郎
「岸和田風物百選」は、岸和田市の市制60周年記念事業の一つとして昭和58年に制作された。

大正7年:コロッケの唄、浜辺の唄、宵待草、赤い鳥小鳥、かなりや
大正8年:靴がなる、東京節(パイノパイノパイ)
大正9年:浜千鳥、十五夜お月さん、しゃぼん玉

解説:初めに揚げた看板は、和歌山に本店のある四十三銀行岸和田支店だった。次いで昭和5年8月に三十四銀行岸和田支店、昭和8年12月には三銀行合併により、三和銀行岸和田支店と名称が変わった。昭和34年6月に日本生命岸和田支社となり、昭和40年12月に、日本貯蓄信用組合岸和田支店となり、現在は成協信用組合である。
(南海本線岸和田駅から北西650メートル)

篠崎浅間神社例祭でのバイオリン演歌師(昭和初期)


篠崎は東京都の東端の江戸川区のそのまた東端である。
7月1日は浅間神社の例祭日で、通称「のぼり祭り」とよばれている。境内に12間(21.72m)もある大のぼりが10本もたてられるのでこの名がある。しかし近頃は毎年は立てていないらしい。

昭和初期の「のぼり祭り」の概要を下記に記載する。もちろん、バイオリン演歌師が学帽をかぶり金色夜叉の唄を歌って商売していた。

 5つの地区の幟が見事に立ち、風にゆらいで「バタバタ」「ギーギー」と、幟竿の音が何ともいえないものだった。
 幟まつりの時は田植えも終っており、畑仕事も1段落しているので、「手休み」「骨休み」といって、近隣の村からも大勢でやってきた。夏祭りの名物である「かき氷」「にしべ焼き」のにおい、アイスキャンデー売りの声、射的、輪投げ、風船、風鈴、金魚、古本、おもちゃ等何でもあった。

 人寄せの「チョイチョイ買いな。よりどり見どり、なんでも10銭」という呼び声、学帽をかぶったバイオリン弾きの「熱海の海岸散歩する」の唄、さらし飴、ぶっかき飴なども人を集めていた。

 人出の多い2日目の正午には、南葛飾郡長、氏子総代、神主など大勢集まり、小学生は羽織、袴で参列して「君が代」を歌った。そして、お供物のお菓子をもらったことがうれしかったと古老は語っている。
 それから、お神楽、芝居、祭りばやしなど、にぎやかであった。子どもたちはおさい銭をあげ、かき氷や団子を食べ、ぶっかき飴などを買って楽しんだ。

わが街篠崎(江戸川区立篠崎中学校)より転載

帝大生 ゆめじ

浮世絵に描かれたバイオリン(大胡弓)

たばこと塩の博物館(渋谷)の企画展<浮世絵花ざかり> に行って大発見をした(2005/2/20)。
展示している江戸時代の浮世絵の中にバイオリンを見つけたことである。外国の美女と楽器が三個描かれておりその一つが大胡弓であった。
バイオリンという表記はないが見た目に絶対バイオリン(4弦、f字穴、渦巻きあり)である。この絵からバイオリンが1860年以前に日本に存在していたのは分かるが誰がどんな曲を演奏していたのだろう。あるいはただの飾りものだったのだろうか。
明治時代の鹿鳴館の奏楽記事をみても胡弓(バイオリン)、洋琴(ピアノ)と表記している。

作品名:玉板油絵 大胡弓 笛 二線    
絵師:歌川貞秀
時代:万延元年(1860)
版元:丸屋徳造

企画展<浮世絵花ざかり> 2005 たばこと塩の博物館


1月20日、たばこと塩の博物館(渋谷)の企画展を見てきた。花ざかりとはもちろん桜のことで江戸の花見の浮世絵がたくさんあった。一足先に美人と桜見物をしてきた気分である。この画像は向ふ島花見の絵である。

花見の場所は実際に行ったことがある有名な所ばかりであるが、今でも大規模に花見をしているのは上野と墨田川沿いぐらいであろう。下記に展示してあった花見の浮世絵の場所を書いておく。
1.品川の御殿山:品川から大崎に抜ける時に通ったが、もう住宅とマンションばかりで小さな公園に桜があったような気がする。
2.吉原の夜桜
3.浅草奥山の桜見物
4.浅草公園(十二階がみえる)明治24年
5.向ふ島花見
6.墨田堤花盛り
7.上野

その他、木版をつかった実用的な子供用のおもちゃ絵、クイズを解くような判じ絵、幕末の世相を風刺した絵なども展示していた。
勝手道具はんじもの(絵の組み合わせで道具を当てるクイズ)
・がまがお茶を立てている:茶釜
・鷲が田んぼにいる:たわし
・象と金太郎の上半身:ぞうきん
・桜の花の真中がない:皿

美人画、役者絵、風景画だけでなく、これらは当時の江戸庶民の暮らしが分かって日本の大道芸を勉強するのに役立つ。
入場料はたった100円、2005年2月27日(日)まで開催。

帝大生ゆめじ
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からすやま新年子どもまつり 第8回(烏山区民センター) 2005


2月11日(祝)、恒例の新年子どもまつりが催された。当然、大道芸が主役のまつりである。広場のステージでは午前に1回、午後は終わりまでずっと大道芸のステージであった。つまり、大道芸以外だれも午後はやらなかった。また、センターホールでも午後1回やった。

今日はチャーリー東京さんも参加してくれて、動物のものまね、手品、ジャグリング、ハーモニカ、バルーン等ありとあらゆる芸を見せてくれた。

バイオリン演歌はちんどんのお姉さんと一緒に美しき天然を演奏して広場を練り歩いて大道芸と七色唐辛子を宣伝した。
これが、バイオリン演歌ショウか、あるいはバイオリンちんどん演歌ショウか、今後どうなるかはお楽しみである。

今日の書生はいつもの紺がすりではなく、古い着物(単)にはかまで演奏しているとおばさんが近づいてきて”いい着物をきているね、お父さんのもの?”とわざわざ手で生地を確かめていた。こちらは新たに買う必要もないので着ているのだが女性は演奏よりも着物が気になるのであろうか。さかんに着物と書生姿をほめていた。目立つことはいいことだがと複雑な気持ちであった。そうだ、昔だって書生でもお古の絹の着物を着ていたはずだ。

あと、男性から戦友のリクエストがあったがGmでうまく演奏できなかった、残念。レパートリーに入っていたが、デイケア等で軍歌がやめたほうがいいといわれてしばらく演奏してなかったからだ。名曲だのにーーー、戦争が終わって60年、実際に徴兵された人が多かったときは自由に軍歌が歌えていた。学生のときは文系、医学系の助教授、若手教授はほとんど戦争経験者だった。”われわれは学徒動員で出兵してたくさん死んだ。工学系は徴兵猶予で戦争にいかなくてよかった。もっと死ぬ気で勉強しろ”と本気で怒られたのがなつかしい。

いつ食べてもとん汁はおいしい。今日は商品の七色唐辛子をたっぷり入れて2杯も食べてしまった。

2005年2月11日 10:00-15:00 烏山区民センター 

演目:バイオリン演歌、ちんどん、七色唐辛子実演販売、玉すだれ、バナナの叩き売り等

帝大生ゆめじ
http://www.geocities.jp/teidaiseiv/retrozone/retro01.html

大道芸絵巻 これぞ日本の大道芸! 大好評


大田区文化の森にバスで到着したが、文化の”森”といってもホールの前の広場には木が一本もない。広場ではフリーマーケットをやっていた。

さっそく私のバイオリンとちんどんのお姉さんとで美しき天然を演奏して七色唐辛子の販売促進を行うが、ビル風が強く、また日陰で寒い。まず帝大帽が風で飛ばされ、次にはちんどん屋の和がさも飛ばされてどこかへ転がっていってしまう状態であった。
背中には今回作成した宣伝用唐辛子を背負ってのバイオリン演奏、何人かにはお買い上げいただき、お礼に唐辛子の唄を熱唱した。

”そばにーうどんにーなべものにー  とんとんーとんとんーとんがらしー
 つけものーみそしるーやきとり・おでんー  とんとんーとんとんーとんがらしー”

その後、85歳だというおじいさんに声をかけられ、第一高等学校の寮の近くに住んでいたけど、その格好通りの学生(高下駄の書生)さんだったと懐かしがられた。バイオリン演歌師として男三郎の唄(ああ世は夢かまぼろしか)を歌うと、警察関係の仕事をしていたからその話は知っている、らい病(ハンセン氏病)の治療のために人を殺した話しただろうとよくご存知であった。自費出版の唄本(最新流行演歌集)まで買っていただいた(100円)。

12:30からホールで”大道芸絵巻 これぞ日本の大道芸!”が始まるのでその前に、バイオリンとちんどんで客寄せを行った。演目は今はもうなくなった懐かしい売り声と大道芸であったが、150名程度のお客さんが入り、アンケートにも懐かしいとか、はじめてみたがまた観てみたいとか好評であった。
最後に、故郷をバイオリン、胡弓、尺八、三味線で合奏し、出演者と会場のお客さん全員で合唱した。合奏は初めてであり、リハーサルもなかったが尺八、三味線はプロであるためか合わせてくれてなんとかうまくいった。

日時:2005年2月6日(日)
ホール:12:30~14:00  広 場:10:00~15:00
場所:大田区文化の森 (京浜東北線「大森駅」西口下車、バス3停留所目「文化の森」下車)
予定演目
物売り:あさり売り、納豆売り、朝顔売り、飴売り、七色唐辛子売り(関東、関西)、大原女、はったい粉売り、金魚売り、煮豆売り、鋳掛屋、ゴム靴修理等
大道芸:南京玉すだれ、虚無僧流し(藤由越山)、胡弓流し(ゴーシャ楽四季)、長唄流し(杵屋和完)、バナナの叩き売り(今井重美)、がまの油売り(梅原白髯)

帝大生ゆめじ
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<上野広小路亭 演芸スクール合同発表会 2005 無事終了!>





2005年1月29日(土)、今日は楽しい発表会であった。講談の発表が多数を占め、講談のなかに奇術、バイオリン演歌、端唄俗曲、上方地唄筝曲が入る構成であった。

講談のお客様で会場は満員の状況であったためか、初めての広小路亭出演のためか、緊張して弓が弦の上ではねてしまう状況であった。音程のミスはなかったが弓をもつ右手が思うように動かなかった。やはり基礎からの練習が大切である。
スタンドマイクの位置も低く、「ゆっくり出て行っていいですからね。低ければバイオリンを高座に置いて調節してくださいね」との裏方をしていた紅先生のやさしい言葉も完全に忘れて舞台へ出るとマイクの位置が気になりながらすぐ演奏してしまった。金色夜叉はセリフも効果音も無難にこなしてまあまあか。いつかは実際にお宮も入って芝居をしてみたい。
男三郎の唄でも重音をいれるべきところをかなり忘れてしまった。今日のような有名な曲を繰り返し練習して完成させていきたい。

仲間が応援に来てくれて大変うれしかった。大げさに言えば、カラオケ等を多用する状況でバイオリン演歌、端唄俗曲等、生演奏、生うたを絶やしてはならないと強く感じた一日であった。
(バイオリン演歌は大道芸の分類であるので邦楽に属すると考えている)。
また、バイオリン演歌は珍しいのか、プログラムをみて絶対に聞くようにと仲間に言ってあるといってくださった出演者もいた。

打ち上げで詩乃里さんからスケール練習が大切、スケールをやれば、無駄な力が入らなくなり、右手右肩がスムーズに動いて弓が飛ばないようになるとのアドバイスをもらった。やはり基本が大切で曲ばかりやってもだめということか。
いろいろな強さ、スピード、リズムでスケールをやるのが良いのは分かっているがーーーーーーーー。

大正演歌演奏曲目:男三郎の唄、金色夜叉の唄(せりふ入り)、籠の鳥、船頭小唄、東京節 約7 min
最新流行演歌集 作成

日時:2005年1月29日(土) 
場所:上野広小路亭
演目:講談(神田紅塾、神田松鯉教室)、バイオリン演歌(大正演歌)、奇術、端唄俗曲、上方地唄筝曲
舞台準備:神田紅葉さん 

「江戸博でお正月」へ行きました 2005


2005年1月10日、宮田章司師匠の江戸売り声実演を観た。5階の中村座前でお正月にやってきたおめでたい物売りや獅子舞、太神楽などが演出されていた。
大変な人だかりで、日本橋の欄干からも多数がみていた。浅草と江戸博を結ぶシャトルバスも運行され満員状態で博物館へお客さんを連れてきたそうである。
着物を着ている客は20%割引となるので、筒袖の着物にモンペをはいて480円で入場した。

宮田師匠とアシスタントに宮田昇がついてまず売り声から始まった。お正月ということでまずお宝売り。江戸時代の宝船絵(七福神)が配られたがあっという間になくなってしまった。その後はリクエストであらゆる売り声の注文に答えていた。羽子板の羽根(追羽根)を売る"つくばね売り"がめずらしくまたお正月らしくてよかった。

その後、獅子舞、かさの曲芸(ボール、一升ます)でワンステージ。これを1時から3回あったがいずれも満員状態であった。<一升(生)マスマスご発展!商売繁盛>を聞けてお正月から縁起が良かった。
江戸博の江戸、明治のセットは売り声、大道芸にぴったりの雰囲気であった。

”去年の夏にも”江戸・東京の芸と音”というイベントで売り声、太神楽、講談、バイオリン演歌等があったが、こういうイベントを定期的に行ってほしい。

初夢:一般的には正月二日の夜の見る夢をいう。良い夢を見るには枕の下に宝船野絵を敷くと良いとされ、正月の江戸の町には、”おたから、おたから”の売り声で宝船の絵を売り歩く宝船売りが現れ、お正月の風物となった。
初夢と宝船: http://teds.cocolog-nifty.com/daidougei/2005/01/post_18.html

日 時:1月8日(土)、9日(日)、10日(月・祝)午後1時~4時の間
場 所:江戸東京博物館 5~6階常設展示室
出 演:売り声実演 宮田章司 ほか

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明治の世相”浮世絵でたどる明治日本” 2004 と路上音楽演奏


渋谷のたばこと塩の博物館で<企画展>明治の世相”浮世絵でたどる明治ニッポン”を見てきた(2004/10/11 Mon)。

文明開化の東京の風俗が描かれた浮世絵や写真が展示されているが、半分はタバコに関するもので、少し物足りないがたった100円の入場料で見ることができる。

日本橋、両国橋、万世橋、銀座、浅草の十二階、東京百美人、新橋、汐留等の停車場、西南戦争、ニュースを絵で紹介する錦絵新聞等、当時の風俗(和洋折衷)を再確認できる。
2004年10月24日(日)まで。金・土曜日は19時まで開館!

帰りに、NHKの横を通って代々木公園からJR原宿駅まで歩いたが、アンプを使っての音楽演奏禁止と書いてある所に堂々と道路でアンプで演奏していた(NHK横)。また踊り、パフォーマンスのグループもあった。のぼりを立てたり、ビラを配ったり、各グループ競っている。道の端で座って、サックスを吹いているのは、練習しているのか、人に聞かせているのか曖昧で賢いと思った。代々木公園の中も、グループで太鼓をたたいているし、原宿駅の上の橋では、アンプなしで演奏していた。
残念ながら、ギター、ベース、管楽器、打楽器ばかりで、バイオリン、和楽器は一切なかった。

若者たちは、勝手に無視して”東京都非公認のヘブンアーチスト”になっていた。心意気はおじさんも見習う必要がある。ヘブンアーティスト以外にももっと自由に大道芸をやらすべきではーーー。

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大阪歴史博物館特別展 『生人形と松本喜三郎』を観た! 2004


大阪歴史博物館特別展 『生人形と松本喜三郎』
平成16年8月25日(水)~ 平成16年10月4日(月)
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2004/ikiningyo/ikiningyo_item.html

大阪歴博生人形(いきにんぎょう)展に行ってきた。あの時代に活躍した生人形師の技術には感心した。特に女性の人形は100年たっても生きているようで、今のマネキンとは全く違う。魅力的だが、半分怖いような気がする代物である。
 この谷汲観音像(たにぐみ)の前には千円札を含めお賽銭が沢山置いてあった。普通の観音様よりより生身の人間に近い観音様である。

谷汲観音像(たにぐみ)は見世物用に作ったがあまりの出来のよさに喜三郎が惜しくなり、本当の観音様にして、見世物用にはもう一体作成したというものである(熊本県指定重要文化財、熊本市浄国寺)。観音様の前には千円札を含めお賽銭が沢山置いてある。人形であるためか、普通の観音様よりより人間に近い観音様である。お願い事をしたあとは、身の回りの世話をしてほしいと良からぬことをつい思ってしまうほどである。

 明治時代には日本人の体格標本や民族風習の研究、展示のためドイツや米国の博物館が生人形を購入し、博物館に展示していた。スミソニアン博物館人類学部門の男女の人形は性器のしわ、血管、体毛までリアルであり、日本人の標本である。

 見世物の生人形は外国での展示用人形、東大医学部の人体標本まであらゆる分野に発展していったことが分かる。芸術家ではなかったが、職人『喜三郎』の偉大さがよく分かった。

 私生活でも、最初の妻とは離縁し、二番目の妻と一緒になって生人形師として成功し、二番目の妻が亡くなった後、再度一番目の妻と結婚したというドラマのような人生であった。

 喜三郎のほか、安本亀八、江島栄次郎等有名な生人形師の人形も展示されている。

 浅草奥山の浮世見立四十八曲(1860)や西国三十三所観世音霊験記(1871)の引き札(人形の解説絵等も展示されている。
浅草奥山でもまた展示会を開いてほしい。展示は10月4日まで。

 生人形は、幕末から明治にかけて、大阪の難波新地(なんばしんち、現在の中央区千日前周辺)や江戸(東京)の浅草などの見世物興行に出された細工物のひとつで、まるで生きているかのような人形です。生人形師たちは、人間の動きや表情をさまざまな主題にのせて迫真の写実性をもって再現し、生人形は激動の時代を生きる市井の人々の感情や欲望を反映、表現してきました。

 この展覧会では、天才生人形師とうたわれる松本喜三郎の作品を軸に、彼と競い合った安本亀八(やすもとかめはち)、さらには二人の後に続いた優れた生人形師たちの国内・海外に残された作品や関連資料を通じて、見世物であるが故に近代の歴史のなかに忘れ去られていった生人形の諸相を紹介します。また、この展覧会は、希代の名工・松本喜三郎の作品が一堂に会する初の展覧会となります。

 熊本出身の松本喜三郎 (1825~1891) は、嘉永7年 (1854) に大坂の難波新地で初めて「生人形」を掲げる人形師としてデビューし、その後、江戸浅草でも人気を博して出世街道を走ります。彼の一世一代の大作「西国三十三所観音霊験記(さいごくさんじゅうさんしょかんのんれいげんき)」(33場74体の人形)は大評判で、浅草で4年のロングラン興行、大阪では明治12 年 (1879) に千日前で興行され、3ヵ月で約60万人の人々が見物したといいます。

 松本喜三郎は見世物だけでなく、明治になって東大医学部の義足や人体模型を作り、医学に貢献した。

 民衆に受け入れられた生人形は、喜三郎の出発点が出身地・熊本の地蔵祭りに出される造り物であったように、あくまで土着の造り物に始まる職人芸術であり、仏教彫刻の伝統や、西洋芸術の美意識や技法に立脚するものではありませんでした。

 一方で、生人形はその技術の高さを買われて、甲冑類のマネキンや、人間の代わりとなる人類学資料(標本)として海外に持ち出され、博覧会などにも登場し、全盛時にはさまざまな展開をみせます。しかし、大衆の関心は移ろい、流行の変化とともに、明治の後半以降、生人形は忘れ去られ、一部を残して歴史の表舞台から姿を消していきました。

 松本喜三郎は、文政8年(1825)2月、熊本の井出ノ口町(現迎町)で誕生、少年期には絵師通いをして画力を磨き、青年期には地元の地蔵祭の「つくりもん」に腕をふるい、嘉永7年(1854)、喜三郎30歳の時、大坂難波新地で「異国人物人形」の活人形の見世物を行い、満員御礼に大いに自信を深めます。さらに江戸でも大評判を得、幕末の爛熟した見世物文化の寵児として活躍しました。
 明治を迎えてからは、博覧会への出品、義足制作の依頼、東校(現東大医学部)から人体模型製造という大仕事を受けるなど、「百物天真創業工」の名にふさわしい大活躍をみせます。

松本喜三郎作/江島栄次郎修復
谷汲(たにぐみ)観音像
明治4年(1871)/明治31年(1898) 熊本市・浄国寺蔵

松本喜三郎の一世一代の大作「西国三十三所観音霊験記」三十三番谷汲山華厳寺の場のために作られた観音像。寺院の縁起を語る場面で、厨子(ずし)から出現した観音を巡礼姿の人形に仕立てた。喜三郎会心の作として東京浅草の寺院に預けられ、興行には別に1体が制作された。明治20年(1887)には喜三郎ゆかりの浄国寺に奉納された。国内で唯一完全な姿をとどめる作品だが、明治31年には大きな損傷のため、喜三郎の弟子である江島栄次郎が全面修理しており、栄次郎の作品ともいえる。熊本県指定重要文化財。

お正月の大道芸 足立区千住神社 2005


2005年1月1-3日に千住神社(千寿七福神)の神楽殿とその前で大道芸をやった。今年が初めての試みであったが、天気も良く大変好評であった。千寿七福神の中ではここが一番境内が広いみたいである。神楽殿は50年以上も前の昭和28年に造られた立派なものであった。

演目はバイオリン演歌、のぞきからくり(地獄極楽)、南京玉すだれ、がまの油売り、バナナ叩き売り、和妻、舞踊、詩吟、胡弓等で種類も豊富であった。

明治生まれの90ウン歳の女性が東京節を聞いて、「丸ビルのある丸の内に勤めていた。長い間こんなバイオリン演歌を見たことがなかった。元気なら来年も是非みたい。」と喜んでいた。また、高下駄がいいとほめられた(?)。他にほめることはないのかな。
今年の干支のにわとりの鳴き声もなんとか出せたので「売り声シリーズ」も完成させたい。
来年も皆で元気に大道芸をやれるように精進したいと千住神社(恵比寿天)に誓った。

帝大生ゆめじ http://homepage3.nifty.com/teds99/index.htm

佐原新月 バイオリン演歌ショウ 2004


2004年12月4日、中野ゼロホールで佐原新月のバイオリン演歌ショウなるものをみた。労働運動関係の催しらしく歌の内容は反政府、反小泉首相で皮肉っていた。

集会参加者の若い女性が”バイオリン演歌てなに!、バイオリンで演歌をやるってどういうこと!”と仲間と話していた。大正時代のバイオリン演歌なるものを知らない人が多い。

会場の後ろから佐原新月が、ちんどん、バイオリンを引き連れて”たけす”の演奏で入場して舞台へ上がる演出であった。

座長である新月を中心に女性2名のアマチュアグループである。向かって左にバイオリン演奏のハイカラさん姿のお富(現役音大生)、右にチンドンとフルートのしげ奴(町娘姿)を従えて、新月は書生姿で歌詞を書いた紙を見ながら唄う。歌はうまくないが女性がバックにいるといいなあーーー。
鳴り物入りのバイオリン演歌を初めて聞いたが、大道芸としては違和感はなかった。もちろんバイオリンは上手で、途中からオクターブ上を演奏したり自由自在。ああなりたいものだ!
この集団の活動を拡大していきたいと座長は言っていた。

佐原新月:(アラブ問題専門家)
しげ奴 :ちんどん屋(チンドンよしの所属)
お 富 :現役音大生

演奏曲目:オッペケペ、ああ金の世や、さすらいの唄、戦友(替歌)、のんき節等

「レイバーフェスタ2004」 
魅力ある労働運動を求めて
日時 2004年12月4日(土)午後6時開場、午後6時15分開演 1200円 
なかのゼロ小ホール

写真:杜 海樹 Miki Mori's Photo Place

注:2005年6月に佐原新月氏はお亡くなりになられました。ご冥福をお祈りします。

世田谷の烏山に帝大生登場! 2004


烏山区民センター文化祭(2004年10月、世田谷区)は天気が曇りの土曜日のほうが人出が多く、天気のよい日曜日は遠出でもしたのか反って参加者が少なく残念であった。

日曜日は日差しが強く、舞台やその前はいすもないため人が寄り付かない。広場の周りにある日陰のベンチに沢山腰掛けて見物という状態であった(音楽は十分聞くことができる)。女性2人組のラップ調の歌、バイオリン演歌、南京玉すだれ等は舞台の前にはあまり人はいない。真打のがまの油はさすが、腕を切ればどんな血が出るのかとかなりの人がぞろぞろと前に集まってきた。脱帽!

唐辛子は文化センターへの入り口、本部前で販売したので、呼び込まなくてもどんどん売れる状態で、レパートリーの唐辛子の歌を歌って呼び込む必要もない状態であった。

でも大学帽(帝大型)をかぶっていると、おばあさんたちが声をかけてきて主人などの話をしてくれて盛り上がった。主人(故人)が姫路高校(現神戸大学)から東大を出た人は、そんな大学帽をかぶって東京の寮歌祭には必ず出ていたとか。
第一高等学校より、入るのが難しいのが宮内庁管轄の官立学習院高等科(高貴なお方のみ)だといったら、戦後は誰でも入れるようになって子供が卒業しているとか。その帽子はどこの大学かとかその他いろいろ話しかけられた。

スタンドカラーのシャツに着物・袴で大学帽をかぶってバイオリンを持っていたら、舞台より、広場に立っていたほうが、沢山のお年寄りの方に声をかけてもらったというのが実感である。まだまだ昔なつかしい大道芸のキャンペーンボーイであった(懐かしさの実践参照)。

帝大生ゆめじ  書生節 バイオリン演歌 演歌師 大正演歌 昭和演歌師 平成演歌師
http://homepage3.nifty.com/teds99/index.htm

大正時代まつり 仮装パレード 書生節  2004



大正時代まつり(さいたま市与野)のパレードに参加した(2004/10/30)。

私は帝大の制帽をかぶり、白絣の着物に袴をはき、バイオリンを手に持っていた。小雨の中を高下駄で与野西口商店街に出てきたのであった。あたりを見回すと、なぜか踊り子はいないが矢絣の着物に革靴の魅力的な女学生(ハイカラさん)がたくさん歩いていた。

テレビなどのカメラが来たが、素足に高下駄を履いている足ばかりを撮っている。それほど、高下駄は絵になるということか。足は冷たいし鼻緒で足の指は痛いし、本人は大変である。

コンビニの前で雨宿りをしながら、バイオリンを持っていると、車椅子に乗ったおばあさんとそれを押す女性が通りかかった。「バイオリン弾けるなら何か演奏してください」と女性に頼まれた。大正時代の名曲「籠の鳥」を演奏するとおばあさんも一緒に歌いだした。

その後雨の中、パレードに参加したが、バイオリンを持った苦学生で登場のつもりが雨でバイオリンはかさに替わってしまっていた。来年こそは晴れて、バイオリンを演奏しながらあるきたいものである。

当日演奏した大正時代の曲:籠の鳥、官立某高等学校全寮歌、故郷、浜千鳥等

苦学生 ゆめじ

高円寺あづま通り大道芸大会 2004


2004年8月27-28日、高円寺阿波踊りに合わせてあづま通りで大道芸大会が開かれた。
われわれも、バイオリン演歌、皿回し、七色唐辛子販売、バナナの叩き売りで参加した。そのほかにはハーモニカ、パントマイムパフォーマンス、ジャグリング等があった。27日はなんとか雨がやんで演奏ができたが、28日は現地まで行ったが雨で中止となってしまった。しかし、さすが阿波踊りは雨の中をやっていた。

夕方の早い時間帯は阿波踊りの観客が駅方面へ向かって行き、人は多いが全く買ってくれない。むしろ阿波踊りが終わって帰るときのほうがはるかに商売になる。バナナは包み紙で記事が読めたり日本語の勉強ができるという新聞紙にくるんで売った。

なぜかポスターにはベレー帽のかわいい男の子がバイオリンを演奏していたが、こちらは着物の着流しに赤いたすきがけでバイオリンを弾いた。バイオリンで美しき天然を演奏すると近所の商店のひとがわざわざ出てきて”いいね、いい曲だ”といってくれたのでほっとする。商店街といってもアパートがあったり、2階は住居となっているのでうるさいといわれるのかとびくびくしていた。

男女の若者集団(4-5名)が特に気にいってくれて金色夜叉の唄をセリフ入りでやると、笑い転げて感激していた。”宮さん、来年の今月今夜、再来年の今月今夜ーーー、僕の涙でこの月をきっと曇らしてみせる”というくさいせりふとバイオリン演奏に大きな時代のギャップを感じたのであろう。”最後にアナログはいいねー”といって唐辛子を買ってくれてディスクジョッキーをやっているという若者は人ごみに消えていった。
金色夜叉という小説さえも知らない若者が多くなったが、知らないから逆に興味を持つのかもしれない。バイオリン演歌は不滅だ!

鶴ヶ島サマーカーニバル(埼玉) 2004





2004年7月17日、鶴ヶ島駅西口商店会通りで鶴ヶ島サマーカーニバルが催され、七色唐辛子の実演販売の宣伝にバイオリン演歌で参加した。夕方4時ごろから歩行者天国となり、阿波踊りの路上流し、バンド演奏、フリーマーケットなどがでた。人通りはかなりある。

今回は皿回しの棒を立てることができる板を重いけれど持ってきたので、それに突き立てて回した。棒の上で皿が回ると、遠くから子供たちが見つけで寄ってきてくれる。子供たちにも皿回し、CD回しをやって遊んでもらった。
もちろん、美しき天然等のバイオリン演歌もやったが、スピーカーからの大音量の阿波踊り音楽に負けてしまう。夏なのでバイオリンのあごあてが汗でびしょびしょになってしまう。
昔はすべて生の声と音でアンプなんかはほとんど使わなかった。阿波踊りでも生の三味線で演奏していたぞ!
七味唐辛子”文七”の売上もまあまああったようである。

高円寺ルック祭 2004


2004年5月2日に高円寺ルック商店街でルック祭が開催された。
出し物は大道芸、各種屋台、フリーマーケット等である。われわれはルック商店街事務所近くで七色唐辛子実演販売とバナナの叩き売りを行った。他の場所ではジャグリングやバルーンが行われた。

七味唐辛子の客寄せのため、ゆめじは皿回しとバイオリン演歌をやった。曲目は美しき天然と東京節。

ほとんどの客はあまり興味なさそうに通り過ぎていったが、80過ぎのおばあさんだけがずっと道の反対側立って聞いていた。演奏が終わると近寄って来て、”こんな芸は長い間見たことない、なつかしい”というので金色夜叉の唄もおばあさんのために歌った。するとおばあさんは興奮して”これを企画したのは誰”と近くの人たちに”あんた商店街の方、事務所はどこ”と問い続けた。おばあさんは大変喜んで”いい企画だったと商店街の担当の人に絶対いってあげるからね”といって商店街事務所の方へ去っていった。

消え行くバイオリン演歌。しかし、たった一人でも喜んでもらえるとうれしいものである。

帝大生ゆめじ 書生節 バイオリン演歌 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師

第8回 からすやま新年子どもまつり (烏山区民センター)



2月11日(祝)、恒例の新年子どもまつりが催された。当然、大道芸が主役のまつりである。広場のステージでは午前に1回、午後は終わりまでずっと大道芸のステージであった。つまり、大道芸以外だれも午後はやらなかった。また、センターホールでも午後1回やった。

今日はチャーリー東京さんも参加してくれて、動物のものまね、手品、ジャグリング、ハーモニカ、バルーン等ありとあらゆる芸を見せてくれた。

バイオリン演歌はちんどんのお姉さんと一緒に美しき天然を演奏して広場を練り歩いて大道芸と七色唐辛子を宣伝した。
これが、バイオリン演歌ショウか、あるいはバイオリンちんどん演歌ショウか、今後どうなるかはお楽しみである。

今日の書生はいつもの紺がすりではなく、古い着物(単)にはかまで演奏しているとおばさんが近づいてきて”いい着物をきているね、お父さんのもの?”とわざわざ手で生地を確かめていた。こちらは新たに買う必要もないので着ているのだが女性は演奏よりも着物が気になるのであろうか。さかんに着物と書生姿をほめていた。目立つことはいいことだがと複雑な気持ちであった。そうだ、昔だって書生でもお古の絹の着物を着ていたはずだ。

あと、男性から戦友のリクエストがあったがGmでうまく演奏できなかった、残念。レパートリーに入っていたが、デイケア等で軍歌がやめたほうがいいといわれてしばらく演奏してなかったからだ。名曲だのにーーー、戦争が終わって60年、実際に徴兵された人が多かったときは自由に軍歌が歌えていた。学生のときは文系、医学系の助教授、若手教授はほとんど戦争経験者だった。”われわれは学徒動員で出兵してたくさん死んだ。工学系は徴兵猶予で戦争にいかなくてよかった。もっと死ぬ気で勉強しろ”と本気で怒られたのがなつかしい。

いつ食べてもとん汁はおいしい。今日は商品の七色唐辛子をたっぷり入れて2杯も食べてしまった。

2005年2月11日 10:00-15:00 烏山区民センター 

演目:バイオリン演歌、ちんどん、七色唐辛子実演販売、玉すだれ、バナナの叩き売り等

大道芸絵巻 これぞ日本の大道芸! 大好評

http://www.geocities.jp/teds3d/Images/004B.jpg
大田区文化の森にバスで到着したが、文化の”森”といってもホールの前の広場には木が一本もない。広場ではフリーマーケットをやっていた。

さっそく私のバイオリンとちんどんのお姉さんとで美しき天然を演奏して七色唐辛子の販売促進を行うが、ビル風が強く、また日陰で寒い。まず帝大帽が風で飛ばされ、次にはちんどん屋の和がさも飛ばされてどこかへ転がっていってしまう状態であった。
背中には今回作成した宣伝用唐辛子を背負ってのバイオリン演奏、何人かにはお買い上げいただき、お礼に唐辛子の唄を熱唱した。

”そばにーうどんにーなべものにー  とんとんーとんとんーとんがらしー
つけものーみそしるーやきとり・おでんー  とんとんーとんとんーとんがらしー”

その後、85歳だというおじいさんに声をかけられ、第一高等学校の寮の近くに住んでいたけど、その格好通りの学生(高下駄の書生)さんだったと懐かしがられた。バイオリン演歌師として男三郎の唄(ああ世は夢かまぼろしか)を歌うと、警察関係の仕事をしていたからその話は知っている、らい病(ハンセン氏病)の治療のために人を殺した話しただろうとよくご存知であった。自費出版の唄本(最新流行演歌集)まで買っていただいた(100円)。

12:30からホールで”大道芸絵巻 これぞ日本の大道芸!”が始まるのでその前に、バイオリンとちんどんで客寄せを行った。演目は今はもうなくなった懐かしい売り声と大道芸であったが、150名程度のお客さんが入り、アンケートにも懐かしいとか、はじめてみたがまた観てみたいとか好評であった。
最後に、故郷をバイオリン、胡弓、尺八、三味線で合奏し、出演者と会場のお客さん全員で合唱した。合奏は初めてであり、リハーサルもなかったが尺八、三味線はプロであるためか合わせてくれてなんとかうまくいった。

日時:2005年2月6日(日)
ホール:12:30~14:00  広 場:10:00~15:00
場所:大田区文化の森 (京浜東北線「大森駅」西口下車、バス3停留所目「文化の森」下車)
予定演目
物売り:あさり売り、納豆売り、朝顔売り、飴売り、七色唐辛子売り(関東、関西)、大原女、はったい粉売り、金魚売り、煮豆売り、鋳掛屋、ゴム靴修理等
大道芸:南京玉すだれ、虚無僧流し(藤由越山)、胡弓流し(ゴーシャ楽四季)、長唄流し(杵屋和完)、バナナの叩き売り(今井重美)、がまの油売り(梅原白髯)

帝大生 ゆめじ

プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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