2017/02/04
船橋ミルクホール(なつかしい昭和の建物)

帝大生の学資を稼ぐアルバイト、 バイオリン演歌 大正演歌 書生節 昭和歌謡 Violin Fiddle / 昭和ロマンを楽しむ会
2017/02/04
2005/10/03
九段下にある九段会館(元軍人会館)でいままで何回もいろいろな講習会を受けたことがあり、1階から3階までの客席を知りつくしている。3階席の傾斜は非常に急でスリルがあった。この間行ってみたが、3階席への階段は立ち入り禁止であった。
この建物は帝国軍人会が昭和9年に建設したものであり、2.26事件の際はここに戒厳司令部が置かれたそうである。洋風の建物に瓦屋根、和洋折衷の様式で帝冠様式の代表的な作品である。いまでは、レストランや結婚式場にもなっており、ビヤガーデンもある。
九段会館ホール(講堂):客席数 1112(1階614席・2階168席・3階330席)、座席の列番号表記は「いろは順」
東日本大震災の影響で2011年(平成23年)4月に廃業し、施設は閉鎖された。
1928年(昭和3年)、昭和御大礼記念事業の一環として「軍人会館」建設計画が持ち上がる。
1934年(昭和9年)3月、「軍人会館」落成式
1945年(昭和20年)9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) により接収。以降「アーミーホール」の名称で連合軍の宿舎として使用された。
1953年(昭和28年)8月、日本遺族会への無償貸与を開始すると共に、施設名称を「九段会館」に変更
2011年3月11日、東京観光専門学校の卒業式の最中に東北地方太平洋沖地震が発生し、天井崩落で2名死亡。この日以降休館に追い込まれた。
<東京市街頭便所>
また、今では昭和館がこのあたりでは目立つし有名かもしれないが、九段下の交番と九段会館との間に半地下式の古びたコンクリートで作られた公衆トイレがひっそりとある。これこそ知る人ぞ知る昭和初期の東京市街頭便所である。もちろん男女別であり、完成した当時はさぞモダンであったであろう。(写真の後ろは昭和館)
はっきり行って汚くて使う気にはなれないが、壊されることもなく、現存しているのである。軍人会館、靖国神社、お堀(牛が渕)、そして最近の昭和館を見続けてきた街頭便所をぜひみてほしい。
超モダン建築「野々宮アパート」:
軍人会館の向かい、九段坂下角に昭和11年建築の東京一モダンな”野々宮アパート”があったらしい。当然今はない。
アパートは、吹き抜けのロビーやエレベーター、備え付け家具など設備もホテル並みだった。現代の都市型マンションの原型といわれる。入居者は外国人や文化人が多く、旧ソ連へ亡命して話題となった故岡田嘉子さんも住民の一人だったそうだ。
2005/09/05
帝大生の書生演歌師であるからにはこの帝国大学の建物を説明しなければならない。日本の大学のシンボルでもある。
もちろんゆめじはこの帝国大学法科大学へ入ったことがある(トイレへ)。寅さんが出てきて大道で啖呵売をするなら、”おれは帝大に入っている、帝国大工組合だ、なんか文句あるか!”
安田家寄付東京帝国大学大講堂(安田講堂)は、安田財閥の安田善次郎からの寄付によって着工したが、大正12年の関東大震災によって工事が中断したりしたが1925年(大正14年)に竣工した。
1968年(昭和43年)の大学紛争によって安田講堂は占拠されて荒廃し、長らく閉鎖されていたが、現在は修復され講演や式典などに使用されている。
東京帝国大学からは上野の山や湯島天神までは大変近く、演歌師としての仕事がやりやすい位置にある学校であることは確かである(?)。
安田善次郎(1838-1921):
越中富山の生れ。江戸で両替商を営んで成功した。明治維新後政商となり、安田銀行、安田共済生命保険会なども経営し、安田保善社を中心に安田財閥の基礎を築く。日比谷公会堂、安田講堂を寄付した。
大正14年:籠の鳥、あの町この町、雨降りお月、からたちの花
安田財閥の戦後:
安田銀行は富士銀行と改称し、同行を中核とする芙蓉グループを形成した。安田財閥は企業集団としての復活はみたが、同族経営による支配体制ではなくなった。
安田財閥系の安田生命保険は明治生命保険に吸収され明治安田生命となり三菱グループ(旧・三菱財閥系)になってしまった。対等合併といいつつ、実質は明治による、財務体質の劣る旧安田の吸収合併である。
安田財閥関連の学校:保善高等学校、安田学園中学校・高等学校
2005/08/23
大阪の中之島公園にある中央公会堂はアーチ、赤煉瓦、青銅屋根でネオ・ルネッサンス様式の建築である。大阪北浜の株式仲買商・岩本栄之助氏が私財100万円を大阪市に寄贈して建設された。
大正ロマン漂う華麗な外観だけでなく、内部の壁、天井もすばらしい。ライトアップされた夜景もお勧めである。大正7年には東京丸の内に東京海上ビルも完成している。東京海上ビルは東京節の歌詞に”海上ビルディング、東京駅”として出てくる。
館内には、約1,700名を収容できる大集会室をはじめ、集会室、会議室があり、現在も文化活動や社会活動の拠点として利用されている。改修後、何回もダンスパーティが開かれていたが、正装で参加する必要があるとかでダンスはできても行く気にもならなかった。
3階の特別室は、創建当時は貴賓室として使われたそうだ(天井画は天地開闢(かいびゃく))。
数年前、そこの特別室である企画展があり、こういうところでこそ誰もやっていない皿回しをやろうとひそかに決心し皿と棒を持ち込んだ。天井も、壁もすべてすばらしい絵が描かれてあり、床は大理石と思われる石を張っていた。皿は割れてもいいが、床に傷でも付けたら大変とびくびくしながら皿を回した。皿を回せても皿の中心に棒を持っていくのが大変難しい。日頃の精進の結果(?)かなんとか皿の中心に棒を持っていくことができて大成功となった。
元貴賓室で創建当時から今まで、いや今後も皿回しをする大道芸人(?)は他に出てこないであろう。
建物概要:
鉄筋、鉄骨コンクリート、煉瓦造り、地上3階、地下1階で、延床面積は7,904平方メートル。
天井と壁面には、明治時代の洋画の先駆者で、後に東京高等工芸学校校長となった松岡寿画伯の作品が飾られている。天井画は「天地開闢」、西側壁面上部には浪速に都を定めたとされる「仁徳天皇」を題材としたものが、南北の壁には商工業都市・大阪にちなんだ「商神・すさのおのみこと」と「工神・太玉命(ふとたまのみこと)」が描かれている。
大正7年:コロッケの唄、浜辺の唄、宵待草、赤い鳥小鳥、かなりや
大正8年:靴がなる、東京節(パイノパイノパイ)
2005/08/07
旧制高等学校の校舎は現在の大学の構内にかなり残っている。
ゆめじも年を取ると”青年の元気は一国の元気なり”、日本の将来は若者に託されているという言葉に同感と思うようになってきた。
日本の社会は、当時のエリートの若者のために立派な建物(設備)を作ったのだ。今の大学も立派な建物を建てているが学生のためというより宣伝のためか。今の大学は「大人の学校」の略で「大学」だそうだ。
写真1:私立旧武蔵高等学校校舎(1923年(T12年))(武蔵大学)
写真2:私立旧成蹊高等学校本館(1924年(T13年))(成蹊大学)
写真3:一番有名な官立旧第一高等学校本館(1933年(S8年))(東大駒場)
大正12年:月の砂漠、船頭小唄、花嫁人形、夕焼け小焼け、復興節 (関東大震災)
大正13年:背くらべ、月は無情、ストトン節
昭和8年:東京音頭、天竜下れば、サーカスの唄
旧制高等学校の目的:
戦前日本に存在した高等教育機関のひとつで男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成することを目的としていた。エリートに対する一般教養教育を目的とし、大学への予備的な教育機関としての役割を担った。現在でいえば、大学の1,2年生に対する教育(教養課程)に相当する。
(ただし、戦後の混乱期に旧制高等学校に少数ではあるが女学生も入学したらしい)
旧制高校は最終的に39校あったそうである。修業年限は3年である(尋常科を置く場合は7年)。誰でも一応知っていて、寮歌も有名なのが”ナンバースクール”8校。これらの旧制高校は旧制大学や他の高等教育機関と統合して大学に昇格している。
大正時代の書生を演じていると、衣装だけでなく、高等学校のことも勉強してみたくなる。
高等学校といえば寮歌である。バイオリン弾き語りで演奏できるのは現在、”ああ玉杯に花うけて”、”紅もゆる岡の花”、”あああ黎明は(近づけり)”等のみである。もっと覚えなくてはーーー
ほとんどの寮歌のリズムはターンタ、ターンタである。なぜだろう?弓はアップからはじめるのか、ダウンがいいのか、よく分からない。最近のレコードでもはっきりリズムを刻まずに滑らかに歌っている。当時はどのように歌ったのか、太鼓に合わせて元気よく士気を高めるように歌ったのではないか。
”青年の元気は一国の元気なり。青年の意気の振、不振は直接その国運の消長に関係す。 --中略ーー
わが寮生たるもの、その任務の重且つ大なるを思うとき、誰か意気更に揚りて天に冲するを覚えざるものあらんや。 それ寮歌は実にこの意気の発露なり顕現なり。只徒に怒号乱舞の具にあらざるなり。”
今から約80年前、大正15年の某官立高等学校舎監の言葉である。
1.官立
ナンバースクール8校
校名 (現在) 寮歌等
第一高等学校 (東京大学教養学部) ああ玉杯に花うけて、春爛漫の花の色
第二高等学校 (東北大学教養部) 第二高等学校校歌
第三高等学校 (京都大学教養部) 紅もゆる岡の花
第四高等学校 (金沢大学法文学部) 南寮寮歌 北の都
第五高等学校 (熊本大学法文学部) 武夫原、椿花咲く
第六高等学校 (岡山大学法文学部) 北寮寮歌若紫に
第七高等学校 (鹿児島大学文理学部) 北辰斜めに、楠の葉末
第八高等学校 (名古屋大学教養部) 伊吹おろし、春は日影
その他の旧制高校は所在地の名前がついており、”ネームスクール”といわれた。その多くは新制大学の教養部や文理学部の母体となった。
2.官立
東京地区では 、浦和高等学校 (埼玉大学文理学部)、学習院高等科(宮内省管轄) (学習院大学、戦後私立)、東京高等学校(7年)(東京大学教育学部附属高校、東京大学教養学部)。大阪地区では大阪高等学校 (大阪大学教養学部)である。
第一高等学校より入学するのが難しいのが学習院高等科であろう。勉強ができても、金持ちでも簡単には入れない。戦後、学習院大学になってからは普通の私立大学になり下がってしまったが。
あの三島由紀夫は1944年(S19)9月に学習院高等科を卒業、同年10月東京帝国大学法学部に入学し、1947年(S22)に東京大学を卒業している。彼は貴族でもないと思う。
第一高等学校に入れない場合、東京の近くのネームスクールは浦和(埼玉大)、水戸(茨城大)、静岡(静岡大)の高等学校である。関西地区では第三高等学校以外でネームスクールは大阪(大阪大)、姫路(神戸大)の高等学校がある。
3.公立
東京地区では、東京府立高等学校(7年) (東京都立大学附属高校、東京都立大学教養部)、大阪地区では 大阪府立浪速高等学校(7年) (尋常科廃止、大阪大学教養学部)である。
4.私立
東京地区では、早稲田高等学院 (早稲田大学)のみが3年制である。他の武蔵高等学校 (武蔵大学)、成城高等学校 (成城大学)、 成蹊高等学校 (成蹊大学)は7年制である。
その他に、帝国大学予科というのがあった。 北海道帝国大学予科、京城帝国大学予科(ソウル大学) 、 台北帝国大学予科 (台湾大学)。そこまで覚える必要もないだろう。
外地では旅順高等学校もあった。その寮歌であった「北帰行」は、昭和36年(1961)に当時の日活映画「渡り鳥シリーズ」でスターダムに上ったアクションスター小林旭が歌って大ヒットした。
Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。
バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師 昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡
昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm
書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ