大正時代まつり 与野 2004 バイオリン演歌・書生節

2004年 「大正時代まつり」 与野
         


東京市 

帝大生ゆめじ(本代を得んがための苦学生)                       











弟の学費の面倒をみてくれているお姉さまと

私はウン十歳(アホ九歳、ウソ九歳)
帝大の制帽をかぶり、白絣の着物に袴をはき、バイオリンを手に持っていた。

小雨の中を高下駄で与野西口商店街に出てきたのであった。
あたりを見回すと高下駄の書生は私を含め2名のみだが、矢絣の着物に革靴の魅力的な女学生(ハイカラさん)がたくさん歩いている。

テレビなどのカメラが来たが、素足に高下駄を履いている足ばかりを撮っている。それほど、高下駄は絵になるということか。足は冷たいし鼻緒で足の指は痛いし、本人は大変である。


コンビニの前で雨宿りをしながら、バイオリンを持っていると、車椅子に乗ったおばあさんとそれを押す女性が通りかかった。「バイオリン弾けるなら何か演奏してください」と女性に頼まれた。

大正時代の名曲「籠の鳥」を演奏すると、車椅子のおばあさんは歌いだした。3番まで歌って演奏を終了したが、おばあさんはなおも歌い続けたのであわてて演奏を続け、7番(最後?)まで歌ってくれた。

私の後ろに置いてあるバイオリンケースを見て「カンパしなくてもいいのかね」とまで気を使ってくれた。歌ってくれたおばあさんたちを感謝の気持ちで見送った。

それから雨の中を開会式、その後パレードに参加したが、バイオリンを持った苦学生で登場のつもりが雨でバイオリンはかさに替わってしまっていた。駅近くの信号機のあたりで、再度、車椅子のおばあさんに会った。「また演奏してもらおうと思って来ました」と話しかけてきたが「パレード中なのであとでーー」といってその時は別れた。

その後、雨はどんどんひどくなり、2回目のパレードは中止となり、その後おばあさんの前でバイオリンを演奏することもなく大正時代まつりは終了してしまった。雨を恨んでもしかたがないが残念!

来年こそは晴れて、あのおばあさんたちの前でまたバイオリンを演奏したいものである。
最後に、お祭りの実行委員会スタッフの皆様には雨の中、大変お世話になりました。

当日演奏した大正時代の曲:籠の鳥、官立某高等学校全寮歌、故郷、浜千鳥、赤とんぼ,しゃぼん玉等
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小説「長恨夢」と小説「金色夜叉」 翻案小説 パクリのパクリ?


小説「長恨夢」と小説「金色夜叉」 翻案小説 パクリのパクリ?

明治の文豪、尾崎紅葉が貫一・お宮の愛憎を描いた小説「金色夜叉」(1897から読売新聞連載)が、当時イギリス、アメリカで人気のあった女性向け通俗小説シリーズの1冊「Weaker Than a Woman(女より弱き者)」を種本にして書かれたことが分かった。

イギリスのFamily Herald紙に、1878年8月17日から同年11月23日まで連載されたものである。









朝鮮の小説「長恨夢」は趙重植が1913年に「毎日申報」に連載したものである。

「長恨夢」は趙重植が「金色夜叉」を翻案したもので、原作をしのぐ深い愛の世界を描いたものとして高い評価を得て以後、芝居や映画となり大衆ドラマとなったらしい。

「長恨夢」の舞台は平壌であり、「熱海の海岸」は「大同江河畔」に置き換えられているが、あらすじはほとんど「金色夜叉」と同じである。




原本の「Weaker Than a Woman(女より弱き者)」、「金色夜叉」、「長恨夢」ともに女主人公がダイアモンドに魅了されてしまう物語である。


日本において外国小説の翻案小説が作られたが、日本の小説の翻案小説も朝鮮にたくさんあったようだ。

尾崎紅葉の『金色夜叉』を翻案した「長恨夢」(1913)、菊池幽芳の「己が罪」(1899)を翻案した「双玉涙」(1910年代)等。
翻案小説:他の作者の小説(内容、事柄)の大筋をまねて細かい点を変えて作り直した小説。

高等女学校生徒のバイオリン演奏(大正時代)

高等女学校生徒のバイオリン演奏(大正10年10月)


明治、大正時代の音楽専門学校の女学生がバイオリンを弾いている写真はたまに見かけるが、県立高等女学校の生徒が音楽会で着物姿でバイオリン合奏している写真は珍しいので紹介する。着物は振袖で演奏しにくそうにみえる。

県立高等女学校(5年制)の生徒であるから年齢は普通12歳から17歳(高2相当)までであるが高学年の生徒だと思われる。大正10年10月の第2回音楽大会合奏と記載してあることからそれ以降も定期的に音楽大会が行われていたのであろう。

通学の制服はセーラー服だと思われるので音楽会のために振袖を着ているのであろう。

県立の女学校でも大正時代には音楽大会でバイオリン演奏があったとは正直驚いた。われわれの時代の県立高校では部活動としてはブラスバンド程度しかなく、他は文化祭などで個人的にギターを弾く程度であった。もちろんお金持ちの子女が行くような私立高校には弦楽部があったような気がする。

ずいぶん後になって、県立高校にも管弦楽部ができてバイオリン、チェロなどが加わって学校でクラシック演奏したりするようになったようである。

バイオリン演奏 合奏 着物 音楽会 丸亀高等女学校 丸亀高校

篠崎浅間神社 のぼり祭り (江戸川区) 2012


篠崎浅間神社(しのざきせんげんじんじゃ)は東京都江戸川区上篠崎にある神社で、東京都最東端・篠崎の地を鎮守するお社である。

このあたりはもとは下総国(しもうさのくに)葛飾郡であったが、江戸期の利根川東遷事業によって利根川西岸になったことから武蔵国へ編入された地域であるから親しみがある。

昭和の初期(戦前)にこの神社の祭礼日にバイオリンを持った書生姿の演歌師が境内で書生節を演奏していたとの記載があったので実際に行ってみたいとずっと願っていた。今年はのぼりが立つということでやっと参拝してきた。

7月1日が浅間神社の例祭日で、通称「のぼり祭り」とよばれている。当時は祭りに小学生が羽織、袴で参列して「君が代」を歌ったりした格式高いお祭りだったようである。


都営新宿線の篠崎の駅から浅間神社のほうへ歩いていくと鎮守の森の上のほうにのぼり旗や柱の上にある笹らしきものが見え始めた。昭和の初めならビルも何もない平地なのでもっと遠くからでも確認できたと思われる。



木々が生い茂った立派な鎮守の森が残っており、境内には参道に沿って露天がぎっしり並んでいる。そこを通って広場に出ると左右に5本ずつ合計10本ののぼりが立ち並んでいる。ちょうど神楽殿では雅楽が演奏されていた。
(各地区2本で北篠崎・下篠崎・篠崎本郷・篠崎仲町・上篠崎の5地区)



柱に「下総国」と銘がある12間(21.72m)もある大のぼりが境内に10本も立てられるので「のぼりまつり」の名があると境内の説明板には書いてあったが今は「下総国」の銘はなかった。


風もないので20m以上にもなる柱はきしんでいなかったが風が吹くとそばにいるとちょっと怖い気もする。

柱は地面のコンクリートで固められた枠の中に木で固定して立ててあった。昭和の初期頃には境内に単なる穴を掘って木で固定して立てたのだと思われるがどのようにして立てたのであろうか。

今は電信柱を立てるときに使っているようなクレーン車があれば短時間で立てることができる。昔は人力で綱で引っ張るにしてもやぐらを組んで滑車を使ったのであろう
(聞くと今でも引き綱2本と滑車を使って人力で立てていた)。





露天は昭和の初め頃の記載と同じようなもの(かき氷、射的、輪投げ、風船、金魚など)がまだあり、こういう風景がずっと残ってほしいものだ。

200円のかき氷を食べながらどこでバイオリンを持った演歌師が金色夜叉を歌って商売していたのだろうかと境内を散策してみた。




<昭和初期の篠崎浅間神社のぼり祭りの様子>
 5つの地区の幟が見事に立ち、風にゆらいで「バタバタ」「ギーギー」と、幟竿の音が何ともいえないものだった。
 幟まつりの時は田植えも終っており、畑仕事も1段落しているので、「手休み」「骨休み」といって、近隣の村からも大勢でやってきた。夏祭りの名物である「かき氷」「にしべ焼き」のにおい、アイスキャンデー売りの声、射的、輪投げ、風船、風鈴、金魚、古本、おもちゃ等何でもあった。

 人寄せの「チョイチョイ買いな。よりどり見どり、なんでも10銭」という呼び声、学帽をかぶったバイオリン弾きの「熱海の海岸散歩する」の唄、さらし飴、ぶっかき飴なども人を集めていた。

 人出の多い2日目の正午には、南葛飾郡長、氏子総代、神主など大勢集まり、小学生は羽織、袴で参列して「君が代」を歌った。そして、お供物のお菓子をもらったことがうれしかったと古老は語っている。

 それから、お神楽、芝居、祭りばやしなど、にぎやかであった。子どもたちはおさい銭をあげ、かき氷や団子を食べ、ぶっかき飴などを買って楽しんだ。
(わが街篠崎(江戸川区立篠崎中学校)より)

ほとんどの祭りが集客のために土日に変更になっている中、このお祭りは土日に関係なく昔ながらの6月30日から7月2日までになっているようである。

のぼり祭り(のぼり立ては2年に1回実施)
昭和56年には、江戸川区指定無形民俗文化財に指定されている。重さ1t以上の幟10本(これは幟の大きさ、祭りの規模ともに日本最大である。)を掲げる祭りである。
(例:6月29日枠いけ、 6月30日朝6時から幟上げ、7月1日大祭、7月2日幟返し)

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日本最大規模の幟祭り 3年ぶりに開催 篠崎浅間神社
                                                     (産経新聞  2012.06.30掲載)

  前回の人力復活30周年以来、3年ぶりに江戸川区の篠崎浅間神社(上篠崎1-22-31)で、富士山の山開きである7月1日の前日、直径25㌢、重さ1㌧、長さ約21㍍の杉の丸太に「奉献浅間大神」と書かれた幟旗をつけると最長で約25㍍にも及ぶ幟10本を立て、五穀豊穣祈願する祭礼の「幟祭り」(江戸川区指定無形民俗文化財)が、6月30日の早朝6時から祭礼、7時から見どころとなる「幟上げ」と行われた。



江戸時代中期から行われている行事で、一時期は人手不足や費用の問題が重なりクレーンなどを使った事もあったが、現在は約300人が所属する、「幟会」(大塚誠会長)が誕生して、2年に一度、前回から大勢の地域の方にも参加していただこうと幟上げは日曜日の開催となったが、今年は週末土曜日に当たり6月30日に行われた。(昨年は東日本大震災の影響で中止)

  境内では露店が出店して、カラオケ、踊りなどの演芸大会が行われ、7月1日は大祭となり、幼稚園児140名による行列や雅楽「浦安の舞」が奉納される。7月2日は幟を下げる、「幟返し」が行われる予定。 
 
 重さ1トン高さ25メートルもの「幟のぼり」10本を神社境内に立て五穀豊穣を祈願する「幟のぼり祭」が篠崎浅間神社(上篠崎1丁目)で行われ、氏子や地元住民など約600名が参加しました。
(江戸川区HP)

書生節 演歌師 バイオリン演歌 昭和 祭礼 のぼり祭り 幟祭り

「書生節 演歌師たちの世界」  京都市立芸術大学資料

京都市立芸術大学でも「書生節と演歌師」の資料を集めていることに感激しました。でも、もう滅びてしまった芸能と認識されているということでちょっと寂しい限りです。

日本伝統音楽研究センター図書室 / 図書室だより:第3回より
最終更新日:2009/9/24 | 公開日:2009/9/24
http://kcua.ac.jp/jtm/library/shimi/bn/03.html

書生節は明治初期に、書生(今でいう大学生)が作って歌った流行歌です。「書生書生と軽蔑するな、末は太政官のお役人」が元歌です。書生の多くは、地方出身で、高官や富裕層の家に寄宿し、立身出世を望んで学業に励んでいました。これらの歌は、1883(明治16)年頃から政治や社会に対する批判を歌詞に込め、街頭で歌うようになり、自由民権運動と結びつきを深めていきます。彼らの歌う歌を演説に変えた歌という意味から「壮士自由演歌」「壮士節」といいました。これが「演歌」の始まりです。

明治20年代後半になると、自由民権運動が勢いを失い、新しく普及しだした唱歌や軍歌に押されて、これらの歌は衰退しました。しかし、日露戦争の頃(明治30年代)、添田唖禅坊が、《ラッパ節》で成功を収め、「演歌」は再び隆盛の時代を迎えました。この頃に、《金色夜叉の歌》も生まれました。その旋律は、従来のかたい調子を改め、唱歌や軍歌など流行している歌を用いたもので、政治性よりも流行歌として性格が強くなっていきます。さらに大正時代には、職業化し、書生のいでたちで流し歩く芸人となり、「演歌師」と呼ばれる人たちが登場してきます。 

今回は、大衆に受け入れられた近代流行歌の歴史とそれを支えた演歌師たちの世界を知ることができる本を集めました。また音源資料では、今ではほとんど聞くことができなくなった演歌師たちの歌や壮士芝居の歌を収録した資料を紹介しています。

この機会に、街頭に立って、世相や風刺を歌った演歌師たちと、その系譜の世界を覗いてみるのはいかがでしょうか。

プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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