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横浜元町「クリフサイド」 ダンスホール


横浜元町「クリフサイド」

クリフサイド (Cliff Side) は、神奈川県横浜市中区元町にある、1946年創業のダンスホール。1950年代から1960年代にかけて、ナイトアンドデイ、ブルースカイと並んで横浜を代表する大規模なナイトクラブであった。


上海帰りのリル(上海歸來的莉露)  
昭和26年 

作詞:東条寿三郎、 作曲:渡久地政信 、
歌:津村 謙
「上海帰りのリル」は1951年(昭和26年)に津村謙が歌ってヒットしたタンゴの曲­­である。翌年の1952年には映画化されリル役で香川京子が主演した。横浜元町のダンスホール­­「クリフサイド」を舞台に映画が撮影された。


クリフサイド ダンスホール 
横浜元町― Cliff Side
100平方メートルのダンスフロアーを有し、1階2階の吹き抜けは、ゆったりした空間を作っている。

 会社の友人とそれぞれの彼女を連れてダンスに行ったことが懐かしい(ダブルデート?)。ダンスフロアーのすぐ横のテーブル に男性2名女性2名で陣取って食事をしながらダンスを楽しんだ。      

横浜元町から渋谷まで彼女を家に送って終電に間に合うように独身寮へ帰るつもりであった。ところが彼女はダンスと食事がすごく楽しかったのか、「歩いて私の家まで行きましょう」と言って機嫌よく一駅分を歩き始めた。腕を組んでおしゃべりしながら送っていって楽しかったけれどおかげで寮までの終電に間に合わずに終点からタクシーでやっと寮に帰り着いた。忘れられない思い出である。

   上海帰りのリル(上海歸來的莉露) バイオリン演歌  昭和26年 
                              演奏:昭和ロマンを楽しむ会  

船を見つめていた ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル   上海帰りのリル リル
あまい切ない思い出だけを
胸にたぐって探して歩く
リル リル どこにいるのかリル
だれかリルを 知らないか

黒いドレスを見た 泣いていたのを見た
戻れこの手にリル 上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル 上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
誰かリルを 知らないか

1946年開業
クリフサイドは、「山手舞踏場」として終戦から1年後の昭和21年8月(1946)に開店致しました。
100平方メートルのダンスフロアーを有し、1階2階の吹き抜けは、ゆったりした空間を作り出しています。
数々の有名Jazz奏者、ミュージシャンが、クリフサイドのステージから巣立って行きました。
今もクリフサイドは、古き良き横浜の香りをそのままに愛され続けております。 


昭和歌謡 上海租界

新橋フロリダ ダンスホール



東京・新橋のダンスホールは歳末に超満員 1956(昭和31)年12月撮影
場所は、「新橋第一ホテル」の隣

私が独身のときにフロリダで踊っていた頃、ロミー山田がステージで歌っていたのが記憶にある。

携帯電話もない時代なので外出してしまうと連絡方法が全くなかった。待ち合わせはステージの右側とか左側とかに決めていたがたくさんの男女が相手を待ってひしめきあっていた。

フロリダはあちこち場所を変えて存続していた。新橋フロリダがなくなって銀座に新しく「フロリダ」ができて行ったこともあったがそのうちなくなってしまった。

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1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、
赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景

<昭和4年8月にフロリダ開場>
警視庁 は,1928年(昭和3)11月 に急 きょ「舞踏場取締規則」を発布 し,1929年末 までの猶余期 間をも うけた上で ダンスホールに一定の規則遵守 を義務づ けた。規則 の内容は,周 囲か らの遮敝,3階 以上の高層建築化 などであった。

その結果,従 来 どお りでほぼその まま営業 を継続で きたの は,ユ ニオンダンスホール と日米ダンスホールの2館のみだった。 また,規 則に合 った建物に移転 して営業を継続 したのが,京 橋に移 った国華,新宿日活館 階上に帝都舞踏場と改名 して移ったパルナスである。 また,クラブ形式の舞踏場 としては芝園倶楽部と耕 ちゃん倶楽部(ジャパ ンと改名)が 残 った。

取締規則発布時に33あ ったダンスホールは,猶 余期間の切れた1930年には6館に しぼ られた。 しか しまた,取締規則発 布以後 に,九 段 ダンスホール,飯 田橋舞踏場,溜池 ダンスホール(のちのフロリダ)が 新たに開館 した。

菊池寛は東京朝日新聞掲載の小説「勝 敗 」 の な か で フロ リダ を 登 場 さ せ て い る。 す な わ ち 「そ こ か ら フ ロ リ ダま で は,い く ら も な か っ た 。 狭 い 階 段 を上 っ て,二 階 のホ ー ル へ 上 っ た 。 ジ ャ ズ,バ ン ドは,作 り物 の シ ャ コ 貝を 背 景 に 一 段 高 い と こ ろ に い た 。… … 」(1931年10月9日)

フ ロ リ ダ に 限 ら ず,こ の 年 代 の ダ ン ス ホ ー ル の よ うす は,久米正雄,大 仏次郎 などの作家の作 品や 日活や大船の映画に しば しば登場す る。

フロリダ(赤 坂溜 池)
夜 は淋 しいあの溜池 に思 わぬジャズの音がひびく。このホールは何 といっても津田又太郎氏のスマー トな経営で八大 ホールを代表 していた。 

ホールの設備 も,バ ン ドも,客種 も他 のホールで味わ えぬ雰囲気だった。外人のバ ンドをアチラか ら直接招聘 した りして,諸 外国の外交官 ぞも多 く来ていたようだった。このホールの ダンサ ーは他のホールよ り,背 の高 い外人向のスマー トなのが揃 っていた。ホール全体 が上品な点 も客種 が良 い証拠だった。


思ひでのダンスホール 戦前編


1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景

思ひでのダンスホール 戦前編

ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号に戦前のダンスホールを懐かしがる記事が掲載されていた。懐かしさと現状のダンスホールを嘆いていて「昔は良かったなあ」と感じているのがいつの時代も同じだと平成時代から見ても面白い。

ルディ・ヴァリー(Rudy Vallee) が1930年に歌ったスタインソング(乾杯の歌、Stein Song)などが流行していたらしい。

<記事要約>
夢よ、もう一度!! One Dance 5 Sen時代! One Yenで二人でラストまで頑張れた!

昭和15年、蛍の光の曲で一生の踊り納めと思ったダンスが終戦のおかげで再び復活した。

東京でもオアシスオブギンザ、サンタフェ、メリーゴールドなどのホールがオープンした。それから数年、ダンスが大衆化されて行くにつれて、田舎には野良ダンス、会社工場には職場ダンスが流行してだれもかれもダンスに熱中してきた。

しかし、昔のダンスエチケットが全く失われてしまった。ダンスホールからキャバレーに移り変わり、踊りが半分、酒、タバコ、それに金に物をいわす時代になった。これでは西部劇の社交場(酒場)になっていしまいそうだ。愚痴を言ってもきりがないので戦前の各ホールを紹介してみよう。

当時、東京の8大ホールといえば、まずフロリダを筆頭に新橋、銀座、日米、國華、ユニオン、和泉橋、帝都などをあげ、郊外には浦和、川口、川崎、東横、花月園等があった。

フロリダ(赤坂溜池)
夜はさびしいあの溜池に思わぬジャズの音が響くホール。ホールの設備もバンドも客種も他のホールでは味わえぬ雰囲気だった。諸外国の外交官なぞも多く来ていたようだった。ダンサーは背の高い外人向けのスマートなのがそろっていた。

新橋(芝口交差点、太田屋ビル階上)
あまり広くはないが見物席とバンドが2階にあり、ホール向きに設計しており申し分なかった。ここではよく不良の縄張り争いがあって血なまぐさい騒ぎを起こしたのがキズだった。

銀座(京橋交差点角、星製薬ビル6階)
大衆向きホール。テケツ(チケット)もランチタイムが5銭、ヒル券10銭、夜券20銭。ここのファンは銀ブラ連中と、カフェーの女給さんが昼間よく遊びに来ていた。

帝都(新宿帝都座5階)
一番遅くできたので場内の設備も良かったが入口が裏の細い楽屋裏からエレベータで上がる感じが悪かった。お客は会社員が多かった。

日米(八重洲口)
他のホールに比べてすこし小さいけれど、場所柄重役級の上品な客が多かった。年配の紳士がそろっているのでいっそう落ち着きを見せていた。バンドはフィリピン人をよく使っていた。

國華(京橋八丁堀)
ここも大衆向けホールでランチタイム5銭、ヒルは10銭、夜券16銭であった。ヒルは付近の株屋さん連中のお客で占めていた。

ユニオン(人形町松竹映画劇場4階、日鮮館ビル)
株式取引所と問屋街が近くにあるので、番頭さん風の粋な人や芸者さんや半玉やお座敷帰りの客が見物によく来ていた。和服で踊っている客の数はこのホールが一番多かった。日本物の曲がバンドにより多く演奏されたのも特色。
一流のプレイヤーを上海から特に呼んで業界に大きなシゲキを与えていたのが今でも印象に残っている。

和泉橋(神田岩本町交差点)
場所柄学生が多く、時節柄制服がやかましいので上着だけ背広に着替えて踊りに来ていた学生ファンで相当にぎわった。当時「制服お断り」、「ネクタイなしお断り」、エチケットをやかましく言ったのでホールの近所で洋服を貸す店さえできたほどだ。全くウソのような事実である。

1933(昭和8)年公開の松竹映画「非常線の女」より、赤坂のダンスホール「フロリダ」でのダンサーのテスト風景。

【松竹では春の新作「非常線の女」を撮影中だがその一シーンに登場すべき眉目型美はしのダンサー五六名を是非懇望したいと赤坂のフロリダに申入れたので二十四日午前十一時同ホールで大掛りなテストをやつた、松竹側からは大谷社長、城戸所長、田中絹代ナンテ幹部所から下回りまで總出動、フロリダでも百六十名の美姫中から選り抜きの綺麗ところを集めて津田支配人初め大童だ。


ダンスホール 
銀座
昭和5年











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ダンス雑誌「モダンダンス」復刊 昭和24年7月号



ダンス雑誌「モダンダンス」
(The Modern 
Dance)

復刊 
昭和24年7月号










どうして昭和24年頃の雑誌「モダンダンス」が手元にあるのか良く分からない。英語の雑誌でもないのに誰かが譲ってくれたのだろうか。連合国占領下の時代である。「The New Yorker」という雑誌も実家にあったがこれは米軍関係から入手したのであろう。

ダンス月刊雑誌「モダンダンス」は昭和8年(1933)に創刊された雑誌であるが昭和15年(1940)に廃刊(休刊)のやむなきにいたった。この年、昭和15年にはすべてのダンスホールも閉鎖してしまった。
(昭和15年7月に出された奢侈〔しゃし〕品等製造販売制限規則(7.7禁令)による)

復刊号(昭和24年7月号)70円の編集後記を見ると戦時中、戦後のダンス界の状況がよく分かった。

創刊した昭和8年(1933)は「昭和8年 戦争への足音」といわれる年である。日本は国際連盟を脱退し世界から孤立。ドイツではヒトラーが政権をとり、アメリカではルーズベルトがニューディール政策を開始した。

「昭和15年7月、8月号を終刊号として出してから、10年の月日が流れた。昭和8年春からの過去は、編集者として、今、回想しても、ゾットする息苦しい時代だった。誌上に取り扱う事象の面に加重する時代の圧迫と遠慮ーーー 今日、晴々とした陽の目を仰ぐような気持ちで復刊号を手がけつつ、顧みるとすべてが悪夢としか感じられない。

なつかしい誌名が大手を振って、ここによみがえるーーーー」

昭和ロマンというけれど戦時中は「ロマン」なんかなかったということだと実感した。

戦後も昭和初期と同じように「ダンス不良化第一歩説」がまた出てきたとの記事が面白かった。平成の今も歴史「XXは不良化の第一歩」は繰り返している。

「警視庁防犯部がダンス関係業界人30名(キャバレィ、ダンスホール)ほどを招いて「ダンスと少年補導」について雑談会を催した。申し合わせで決定した主な事柄は、ホール内に警備員をおいて18歳未満者の入場を厳禁すること、ダンスエチケットの箇条文の掲示などであった。」

警視庁の調べでは、強盗、スリなどの少年犯罪は都内で2分間に1階の割で発生しており、その不良化の第一歩がダンスに始まっている例が多いという(朝日新聞5月12日記事)。

これに対する反論はダンスが少年を不良化するのではなく、すでに不良化した少年、容易に不良化する少年がダンスより前にすでに社会に充満しているのである。少年補導はキャバレイとダンスホールのフロアーより、ずっと遠いところから始めなければならない。これが補導の第一歩だ。
30年前にも「活動写真を少年少女が見に行く」のが不良の第一歩だったと。玉突き、麻雀などはどうか、ダンスだけではないのではなど。

この雑誌の中の「ダンス新聞」に「青少年不良化防止にダンス界も協力」<警視庁主催の懇談会>記事があった。
昭和24年5月10日午後1時から警視庁貴賓室に都下各キャバレー及びダンスホール業者と教師団体(NATD)並びに教授所経営者を招き、防犯部長、少年第一、第二課長、保安課長、都防犯協会連合会長、都教育局、都民生局、都少年補導連盟等各関係者も列席して懇談会を開いた。
結論:ダンスを通じての青少年不良化防止のために業者と当局は積極的に協力する。、業者は専属の場内係りを急速に設置する。、場内に「社交礼儀」を具体的に欠いた掲示をする。
以上をもとに、都下の各ホールで当局の協力の下に今後場内での不良行為とワイセツダンス及び未成年者の入場は徹底的に取り締まることに決定。


復刊号裏面には「日本最大・最高のホール オアシスオブギンザ(銀座松坂屋地下)」と場末である品川駅前の「都下で最も安いホールパラマウント」の広告があり面白い。

それぞれ「最大・最高」と「最も安い」を売りにしている。

ダンス用語英語の表記が現在と異なっていた。昭和24年頃までは下記のように記載されていた。発音は英語表現なら現在と変わらないし昔の方がより実際の発音に近い表記(ウオルツ)かもしれない。

クヰックステップQuick Step)、ウオルツ(Waltz)、ルムバRumba)
スロー・フォックス・トロット(Slow Foxtrot)、タンゴ(Tango)
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プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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