今だからこそ 私たちの戦争体験記 成田市

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水木しげるロード(境港)散策と大山(伯耆富士)


水木しげるロード(境港)散策と大山(伯耆富士)

2015年7月、大好きな水木しげるの妖怪たちのブロンズ像を見るために境港市へ行った。それに長年の夢だったJR伯備線に乗って大山(伯耆富士)をみることも実現できた。大山(だいせん)は鳥取県にある標高1,729mの火山で中国地方 の最高峰である。

本当に久しぶりにJRローカル線の旅を楽しんだ。岡山までは新幹線だがそこから特急「やくも」に乗って伯備線で米子へ行き、そこからは単線の境線で境港駅(愛称は鬼太郎駅)に到着した。さかなと妖怪にあえる駅、境港

正確にいうと、岡山から山陽本線で倉敷、倉敷から伯備線で伯耆大山、そこから山陰本線で米子駅下車。、米子からは単線の境線で境港駅である。山陽本線と山陰本線を通ったことになる。

米子から弓ヶ浜半島を行く境線は「ねこ娘列車」と「鬼太郎列車」が連結された2両編成であった。列車の窓から見ると周りは砂山さえもない平らな砂地でネギなどが植えられている。ワンマン運転で駅名などの自動放送の声は「ねこ娘」の声まねだ。

「ねこ娘」は好きだが可愛い猫というより、おとなしい女に見えるが「猫かぶり」でいざとなると化け猫に変身するから苦手である。美人の猫にはちょっと興味があった。子供の時に見たTVシリーズ「バットマン」に出てくる「キャットウーマン」が一番好きだった。

水木しげるは境港出身で駅前からの水木しげるロード(全長800m)両側には妖怪ブロンズ像が150体以上配置されており一つ一つ見ていくと懐かしく楽しい。ちょっと像が小さいのが残念であった。


演芸のネタにしている「口裂け女」の像もしっかりと鑑賞してきた。「帰ってきた口裂け女」という歌まで作ったのに今はお蔵入りである。

「ゲゲゲの鬼太郎」のファンで昭和ロマンを楽しむ会でも当然TVアニメの主題歌を歌っている。この主題歌のメロディも街のところどころで流れていた。いまの子供たちは鉄腕アトムより「ゲゲゲの鬼太郎」の歌の方をよく知っている。


妖怪を写真付きで紹介している妖怪ガイドブックを120円で買った。妖怪スタンプラリーの台帳にもなっていてお店の前に置いてある37個のスタンプを集めると完走証がもらえると聞き小学生のように闘争心に火がついてしまった。平日であったが妖怪めぐりをしている観光客も結構いた。ねこ娘やねずみ男のぬいぐるみも現れて握手したり記念撮影に参加したりしていた。暑いのに大変なお仕事だ。


7月の暑い中、やっと集めて駅前のみなとさかい交流館にある観光案内所へ持っていった。直ぐもらえるとおもったら、女性職員はなんと全ページをチェックし始めた。1個だけ押し忘れが発覚して再度暑い街に出て最後のスタンプを押して完走証をゲットした。


なんと妖怪の街のシンボルとして駅前交番が「鬼太郎交番」になっていて交番の前に最後のスタンプが置いてあった。

お巡りさんが押してくれればいい思い出になったであろうがそんなことはありえない。

「鬼太郎交番」の看板には目玉おやじの照明が付いていた。



「ゲゲゲの鬼太郎」 TVアニメ オープニングテーマ 昭和43年 
バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会
 「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん死去 93歳
 (スポニチアネックス 2015年 11月30日(月))
  「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名武良茂=むら・しげる)さんが11月30日日午前7時ごろ、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去した。93歳だった。鳥取県出身。
 高等小学校卒業後、漫画家をめざし、大阪で働きながら漫画を学び、戦争中は陸軍の兵隊としてニューギニア方面に出征。戦後は一時紙芝居を商売にしていた時代があった。
 1958年に貸本漫画家としてデビュー。「河童の三平」「悪魔くん」などを発表し、「ゲゲゲの鬼太郎」が「週刊少年マガジン」に連載され、妖怪を扱う人気漫画家となった。
幼少期を過ごした鳥取県境港市には愛着があり1993年には「水木しげるロード」が設けられ、2003年には「水木しげる記念館」が建てられた。2010年には妻の布枝さんが書いた「ゲゲゲの女房」がNHK連続テレビ小説として放映され、その生きざまが共感を呼んだ。1991年に紫綬褒章、2003年には旭日小綬章を受章。

伯備線の旅も今回の目的であった。伯備線(はくびせん)は山陽地方と山陰地方とを結ぶ連絡路線であり、中国山脈を越えて岡山県と鳥取県を結んでいる。岡山駅で伯備線ホームは見ていてあれに乗れば山越えして鳥取西部へ行けるとは思っていたが長い間見るだけであった。

岡山側は南へ流れる高梁(たかはし)川の渓谷を眺めながら中国山地を登っていく。特急「やくも」途中停車駅は、倉敷、備中高梁、新見である。この辺りは石灰岩が取れるようで砕石場や大きな工場が谷間に散見された。谷田峠トンネルを抜けると鳥取県である。列車の動力音も小さくなり下り坂であることが体感できた。ここからは北に流れる日野川に沿って列車は進んでいく。水量豊富できれいな川であった。鳥取県側の途中停車駅は根雨または生山である。曲線と急勾配が多く渓谷を眺めていると飽きない。

伯耆溝口駅あたりで大きな鬼の像が見えた。このあたりから東に大山が見え始める。大きな川幅の日野川になり米子平野になり始めた岸本駅から伯耆大山駅で大山がよく見えた。またちょうど水田の稲もきれいであった。大山が見え始めるとあっというまに米子駅であった。


確かに初めてみた大山(伯耆富士)は雄大で美しい。高い山なので雲がかかったりしてどんどん景色は変化していく。帰りの列車で見たほうがきれいだった。

伯耆大山を見て育った学生時代の友人が話してくれた大山をどうしても見てみたかったがかなわなかった。手遅れとなってしまったがやっと眺めることができた。時代は変わっても自然は美しい。

「誰とみる 青い大山」 「どこで見る 同じ大山」


伯耆町 岸本町 米子市 境港市 大山

父の満州での軍隊生活 (8) 歩兵砲


父の満州での軍隊生活 (8)  歩兵砲

帝国陸軍の歩兵大隊には歩兵砲隊や機関銃中隊などがあり父もこれらの部隊に所属したこともあったようだ。歩兵の野戦訓練では戦車、歩兵砲、重機関銃などを用いて総合的な訓練が行われておりその写真も残っていた。

九二式重機関銃がある写真を探したがなぜか見つからなかった。今回は歩兵砲の写真を取り上げたい。父は奉天甲種幹部候補生隊へ入隊して歩兵砲隊に編入したようである。

九二式歩兵砲は、大日本帝国陸軍の歩兵砲で終戦までに約3000門製造されたらしい。1個歩兵大隊に対し本砲2門を擁する大隊砲小隊が付随するために「大隊砲(大隊歩兵砲)」の通称がある。(砲口径70mm、砲身長790mm、砲重量204kg、最大射程距離2,800m)
写真の歩兵砲一枚物鋼鈑製の車輪。

あまり命中精度が良くないので通称「大隊砲」を「だいたい(大体)砲」といったらしい。おおよそ当たるという意味か。
http://1.bp.blogspot.com/-vqChgkoR3RE/VXloK7AoIRI/AAAAAAAAB0Y/1zwSrLp7xyI/s1600/IMAG0041b.jpg
「八八式」と記載されてある木箱の中身は砲弾の信管のようだ。ネットで調べると、八八式信管は、昭和4年に内令兵37号により兵器採用された口径12~10糎砲通常弾用の弾頭着発信管。そして、昭和18年には大口径砲用の零式通常弾にも用いられた。

今見ればおもちゃのような歩兵砲であるが砲本体は204kgもある。移動時は駄馬1頭で牽引するか、歩兵10人で分解して担いで移動することも可能だったそうである。もちろん戦場まではトラック等に載せて移動するのであろう。

写真では歩兵砲を6人がかりで草原を引っ張って移動している。弾丸は別途運搬する必要がある。
写真は九二式歩兵砲の砲弾であるが、「弾薬は5発入りの弾薬箱に収められ重量は30kgあり、兵士1人が1箱を担いで運ぶか駄馬1頭で4箱を運んだ」とある。兵隊さんが30kgの弾薬箱を背負って行っても5発しか撃てないとは!20名の歩兵が弾薬箱を運んでやっと100発の歩兵砲が撃てるわけだ。


九二式重機関銃だって一分間に何百発撃てるといっても実際には長期間連続しては射撃できないと思う。銃弾をすべて人力で担いで銃座まで持ってくるところがボトルネック(律速)になってしまうだろう。

現代は農業、工場、サービス業などあらゆる分野が機械化、コンピュータ化されていることを思うと昔はすべて人に頼っていたんだなあと実感した。
もちろん米軍の歩兵部隊は機械化されていたのだろう。

軍隊 満州 陸軍 歩兵 教育 訓練 訓育

昭和初期の家族写真 小学生・女生徒・女学生・学生


昭和初期の家族写真 幼児・小学生・女生徒・女学生・学生

暮れに実家の書棚を整理していると母の実家の家族写真が出てきた。撮影は昭和2年3月(1927年)で宮崎県の都城であると思われる。私の母方祖父夫婦と子供7名で赴任先の自宅(借家)の庭で撮影している。母は末っ子で当時3歳でそのあたりの田舎では珍しかった洋装である。母は祖母が40歳を過ぎてからの子供である。

昭和2年12月には日本最初の地下鉄(上野~浅草)が開通した。昭和2年の流行歌は北原白秋作詞の「ちゃっきり節」がある。昭和3年には藤原義江が歌った「出船」や「波浮の港」が流行した。

当時は女性は基本的に和服で男性は洋服のようである。また、この写真から当時の学生の服装がわかって面白い。

左から1番目の次男は小学生だと思われる。2番目の長男は旧制第七高等学校理科(鹿児島)の学生で学生服、右端は高等女学校の生徒であろう。前列左から4番目の三男は小学校入学前であった。

右から2番目と4番目の母の姉たちは下宿して官立の女子高等師範学校(女高師)へ行っていた。右から4番目の姉は着物に袴姿であることから在学中で女学生だと思われる。右から2番目の姉は袴を着けていないのでこの時にはすでに卒業して教員になっていたのかもしれない。

当時は子供が多く、高等教育を受けるためには都会へ出て行く必要がありずいぶん教育費がかかったであろうと思う。今と違ってずいぶん質素な生活をしていたようだ。

子供たちの中で秀才は長男と右から2番目の姉だったそうである。長男は旧制中学、その姉は高等女学校、それぞれ4年修了から飛び級で旧制高等学校と女子高等師範学校へ入学している(旧制中学、旧制高等女学校の就学年数は5年)。長男はその後、京都帝大の理学部へ進学し大学教員となった。

ずいぶん前に聞いた母の話によれば教員になった優秀な姉は戦後にずいぶん惨めな思いをしたそうである。

敗戦後、アメリカと同じように教員は大学卒でないと駄目だということになり、大卒でない教員は全員研修教育を受けたそうである。

戦前は、官立の高等師範学校や女子高等師範学校は国が定めた最高の教員養成機関であったが確かに帝大卒でもなければ大卒でもなかった。

しかし、彼女らは国のお墨付きがあり、私立大学卒業の教員よりも高給であったそうだ。ところが戦後は「教員は大卒」ということになり研修を受けたり、給料が下がったりいいことはなかったそうだ。

おまけに自分では「飛び級で進学した秀才」だと思っていた姉は、「女学校を4年しか修めておらず学業年数が足りない」とまで意地悪を言われたそうだ。長男は同じ飛び級で進学したが帝大卒の資格(学士)を持っているので当たり前だがおとがめなしであった。世の中が変われば評価も変わるのである。

戦前は、医学専門学校(医専)、高等商業学校(高商)、高等師範学校、高等工業学校など大学でなくても専門教育をするすばらしい高等教育機関がたくさんあった。

ところが、アメリカの影響で私立を含めこれらの学校はすべて大学になり、また師範学校までもが大学になったので全国各地に大学が誕生した。これが駅弁大学の始まりである。

現在も秀才で高校2年で中退して大学進学している特例もあるが大学卒業できなければ大卒でもないし高卒でもなくなり同じようなことが起きるだろう。

まあ、われわれのような普通レベルの人間には「飛び級」は関係ないことである。浪人して大学へ行く受験生たちからすると、どうやったら高校3年間の勉強を2年間で終了して希望の大学へ進学することができるのであろうと不思議であろう。

小学校,旧制中学校,旧制高等女学校,旧制女子高等師範学校(女高師),旧制高等学校,帝国大学

父の満州での軍隊生活 (7)


軍事演習の中でも有名な観光地、勝利した日露戦争の戦跡を訪問しているのがあった。たまの息抜きと兵隊さんが元気に満州で任務についていることを内地の家族に記念写真で知らせることも重要なことだったのであろう。

父の満州での軍隊生活 (6)でも紹介したが「水師営の会見」の場所となった旅順の水師営会見所での記念写真を残している。これ以外に冬にも訪れて写真を残していた。

中央で軍刀を持って立っている4人の内、一番右側が父である。(眼鏡をかけている方の左側)

前回は小グループに分かれての記念撮影だが冬季は集団で撮影している。耳あての付いた防寒帽をかぶっていることから満州の冬はやはり寒そうである。

旅順付近には日露戦争の戦跡がたくさんある。石碑のある山頂付近での演習中の写真もあった。

203高地(にひゃくさんこうち)が有名だがこれはどこのなにの石碑であろうか。Webで調べただけでも旅順にはたくさんの堡塁の記念碑が存在していた。

旅順戦跡 盤龍山東堡塁ノ記念碑
旅順戦跡 盤龍山西堡塁ノ記念碑
旅順戦跡 盤龍山北堡塁ノ記念碑
旅順 百六十四高地高崎山ノ記念碑
旅順戦跡 東鶏冠山北堡塁
旅順 松樹山堡塁山上ノ記念碑

もちろん高地よりも広い平地での演習が主だったようである。場所は不明であるが鉄道の小さな駅を降りて徒歩で向かっている写真もあった。


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プロフィール

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Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

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昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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