昔の有名なバイオリン演歌師 書生節

バイオリン演歌師紹介    <バイオリンの音色が聞こえる夜の辻>
 
 昔の有名なバイオリン演歌師   書生節

 ★神長瞭月(1888~1976):
神長瞭月は、バイオリンを独学で学んで演歌の伴奏楽器として初めて使用した先駆者(パイオニア)。「松の声(女学生堕落の歌)」、「ハイカラソング」

 ★宮島郁芳(1894~1970):
演歌師となり学資を稼ぎ早稲田大学文科予科に入学「金色夜叉」の歌を作詞作曲。バイオリンを弾きながら歌い爆発的なブームを呼んだ。その後「流浪の旅」、「馬賊の歌」(作詞)などを発表。

 ★鳥取春陽(1900-1932)
自ら歌い、作曲もしたバイオリン演歌師。「篭の鳥」を作曲し大ヒットさせた。東京で新聞配達をしながら神田正則英語学校(夜間)に通う(1916)。その後、演歌組合員として活動に入る。また、山の手組石田一松を積極的に応援する。「馬賊の唄」作曲。

 ★石田一松(1902~1956):
法政大学在学中にバイオリン片手にノンキ節で人気。戦後、東京から衆議院議員に当選4回。寄席でも活躍した。元祖タレント議員

 ★田浦美津路:石田一松の直弟子
 ★桜井敏雄(1909~1996):田浦の弟弟子、 レコード、CD多数あり
 ★大江しげる(元東京演芸協会): 時事演歌。 「のんき節」替歌 
   昭和27年から玉川スミとコンビを組んだこともある。
 

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添田 唖蝉坊と神長 瞭月 大衆音楽の殿堂



古賀政男音楽博物館 大衆音楽の殿堂
平成9年から作詞家、作曲家、歌手を顕彰している。当然、古賀 政男は平成9年、初回に顕彰されていた。



添田 唖蝉坊は作曲家として、神長 瞭月は作詞家として音楽的に認められている。
一流の審査委員が選んで選定したはずだけれどわれわれのイメージと逆のような気がした。

平成13年に添田 唖蝉坊(作曲家)として顕彰された。作詞家だと思うがどうして作曲家なんだろう。平成13年(作曲家)は他に鳥取 春陽、船村 徹、遠藤 実など。

平成18年に神長 瞭月は作詞家として顕彰された。なぜか作曲家ではなく、作詞家として評価されている。長編の「松の声」の効果か。なお、平成18年に作詩家として 阿久 悠、神長 瞭月などが顕彰されている。

 瞭月は、昭和になってから流行歌(戦時歌謡曲)の作詞家や作曲家として大手レコード会社から有名歌手(男女)がレコードを出している。
(塩まさる、田端義夫、音丸、美ち奴など)

大衆音楽の殿堂(顕彰者) 古賀政男音楽博物館
平成13年(作曲家):添田 唖蝉坊、鳥取 春陽、船村 徹、遠藤 実など
平成18年(作詞家):神長 瞭月、阿久 悠など

多くの音楽家のすぐれた才能や、たゆまない努力によって、大衆音楽の名曲は生まれました。

古賀政男音楽博物館では、日本大衆音楽の歴史を振り返り、その発展に貢献された方々の功績を顕彰する「大衆音楽の殿堂」を設けています。この殿堂ホールには、顕彰者のレリーフが掲げられているほかに、その年の顕彰者ゆかりの品々を展示しております。

戦時歌謡でも活躍した神長瞭月

演歌にバイオリンを初めて使用した演歌師、神長瞭月は、昭和10年代に流行歌の楽曲を提供している。彼の曲は大手レコード会社から有名歌手によって歌われ発売された。
神長瞭月はどんな時代になっても需要に応えて音楽活動をしていたようだ。

瞭月が関与した流行歌(戦時歌謡)「白衣の尺八」、「戦場の幼な子」、「別れの尺八」は現在でも、TouTubeでの曲を聴くことができる。

いずれも戦争関連であるが勇ましい曲ではない日本的な哀愁のある曲である。なかなかいい曲だと思っているが「戦友」と同じく歌う機会がない曲である。

「白衣の尺八」 塩まさる テイチク 作詩:神長瞭月、 作曲:田村しげる 
(『九段の母』の片面) テイチクオーケストラ  昭和14年

愛国歌「感激の日の丸」 テイチク
歌唱:鶴田六郎 作詞:神長瞭月 作曲:能代 八郎   昭和14年9月

「戦場の幼な子」 田端義夫 作詞:神長瞭月  作曲:神長瞭月
昭和14年8月発売
曲の間奏に子守唄のメロディを使用して兵士の故郷や母のことを思い出させている。

砲撃戦のその後で
拾った支那の幼子よ
慣れぬ手付きで抱き上げりゃ
懐く髭面不精面

慰問袋のキャラメルを
水に溶かして飲ませたら
思い出したか母さんを
探る乳房のいじらしさ

故郷を出る時抱いた子も
思えば丁度これくらい
達者でいるかまめなかと
便り書いたも今日の事

千人針と日の丸を
繋ぎ合せてネンコロリ
思い出したぞ俺もまた
母の背中で聞いた歌
 
「別れの尺八」 筑波 嵩  作詞:坂口 淳、作曲:神長瞭月
昭和16年。
名曲 「戦友」を思い出させる。激しい戦闘が終わった後の短い静けさ、戦死した友への思いを感じる。

秋が来たぞと雁がなく
月の露営の前線に
白い野菊の花ひいて
友が静かに吹き鳴らす
ああ尺八の音がさえる

腕に巻いたる包帶も
とれてうれしい弾の痕
俺もお前もこの丘で
花と散る気でいたものを
ああ感慨はただ無量

月の露営の風聞けば
亡き戦友の声がする
あすは別れだ前進だ
心ゆくまで吹いてくれ
ああ惜別の尺八を

その他、神長瞭月 作詩・作曲のレコード(戦時歌謡)
『別れの馬子唄』(音丸) コロムビア
『銃後の渡し守』(美ち奴) 昭和14年7月、テイチクレコード

「満州小原良節」  浅草美知奴 神長瞭月
浅草美知奴(美ち奴) 神長瞭月 トンボレコード 15635-B 
嵯峨道雄作詩 中津ひさし編曲 伴奏トンボ和洋ジャズバンド  オーゴン蓄音機株式会社発売
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神長瞭月 レコード 歌唱、作詞、作曲など

「松の声」  神長瞭月  NIPPONOPHONE

「深川くづし」 彌生ふじ子 大正時代
作詞:山口凌雲 作曲:神長瞭月 大正7年 「船頭小唄 彌生ふじ子」の反対面

風刺歌「ワンダーウ ワールド」 神長瞭月 UGUISU RECORD

流行唄「さすらひの歌」(神長瞭月) TOKYO RECORD

流行唄「新にこにこ節」(神長瞭月)TOKYO RECORD

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神長瞭月の戦時歌謡 (SP盤雑学ノート)  参照

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世相に流れゆく演歌師 演歌四十年の“小松ッちゃん”(新宿)

東京は日本ではないと外人にいわれるたびに私は、いや東京こそはまぎれもなく日本なのであると答えることにしている。都には国のすべての要素が集結しているのだ。ものの考えかた、感じかた、職種、料理、下劣、気品、名声ある変化の達人の知的俗物、無名の忍耐強い聖者たち、個人的清潔と集団的汚濁、繁栄と貧困、ナポレオン・コニャックとラーメン、絶望と活力、ありとあらゆるものがここに渦巻いている。ここで思いつかれ、編みだされた知恵と工夫と狡猾が地方を支配する。
「ずばり東京」文春文庫) 開高健

「ずばり東京」は、1963年10月から翌年11月まで、『週刊朝日』に写真とともに掲載され、当時の東京の姿を鋭く切り取って描いた。


「ずばり東京」 第39回 
世相に流れゆく演歌師
自由民権の壮士だったのは昔の話、いまは流行歌からCMソングまで

「オレは河原の枯ススキ……」 演歌四十年の“小松ッちゃん”(新宿で)

“演歌師”という言葉は演説を歌でやるところからでてきた言葉のようである。…だから、夜ふけにギターをかついで酒場から酒場へ歩きまわる人たちはエンカシというよりは、やっぱり、リュウと呼び、流シと呼ぶほうが正しいのだ。

東京都内だけでざっと千人ぐらいは流しがいるのじゃないかという噂がある。盛り場では新宿がいちばん盛んで、三味線の門付なんかもいれると、だいたい二百人から三百人ぐらいいるのじゃないかという。

(昭和39年7月3日号掲載) 1964年

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「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その3

「演歌を育てた男 神長瞭月」 栃木放送 特別番組 その3

昭和ロマンを楽しむ会の帝大生ゆめじ&青空ぴーまんも現役演歌師として出演して東京節(パイノパイノパイ)を歌い、またインタビューも受けている。

「演歌を育てた男、神長瞭月」 栃木放送 開局50周年 特別番組
歌を紡いで  ~演歌を育てた男、神長瞭月~

東京節演奏とインタビュー:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)

明治21年大宮村(現 塩谷町)に生まれた神長瞭月。上京して独学でバイオリンを学び、作詞作曲した演歌を歌いながらバイオリンを演奏する「バイオリン演歌」の先駆者です。

昭和51年に2枚組のLPレコードを発売し、88歳の生涯を終えますが、その生涯は謎に包まれ、活動の詳細もほとんど知られていません。

番組では羽黒村(現 宇都宮市上河内)で作った「羽黒音頭」のエピソードなどを交えながら、その謎に包まれた生涯に迫ります。
CRT栃木放送(ラジオ)
2013年3月31日(日)10:00 - 11:00 1時間特別番組
1530kHz(県央)1062kHz(両毛)864kHz(県北)

<放送内容 その3>
街から演歌師たちの歌声は聞こえなくなったが在りし日の演歌師の姿を今に伝える人たちがいます。昭和ロマンを楽しむ会の青空ぴーまんさんと帝大生ゆめじさんはイベントや介護福祉施設などでバイオリンを弾きながら歌っています。

演歌師が歌った歌は今でも人々が口ずさみやすいメロディーだと青空ぴーまんさんは話します。

演歌師たちが人々の心に残していた演歌を、瞭月は私たちの歌として口ずさみやすいように工夫をした人でした。

瞭月と同じ塩谷郡塩谷町の出身で晩年の瞭月と親交のあった作曲家の船村徹さんは「明治期の演歌を盛り上げた添田唖蝉坊によってまかれた人々に愛される歌の種が瞭月によってはぐくまれ、そして今日の演歌、歌謡曲へ続いている」と評価している。

<船村徹さん談>
「添田唖蝉坊という方が種をまいた人でしょうね。その後、今度は神長瞭月先生らがその芽を育てた人ですね。さらにその後、のんき節の石田一松先生と続いて、われわれのところへつながってきている」

「ずっとつながっているのです。根底に流れている大衆文化というもの、神長先生あたりが拓いてくれたものを、われわれがやっぱりそれを伝道していると思っていただければ十分です」

瞭月が切り開いた道を自分たちは伝え歩き、そして歌への思いは綿々と受け継がれていると船村さんは感じています。

時の流れとともに歌は変化していくものである。でも瞭月の姿は消えても彼が紡いだ歌は今なお人々の心に生き続ける力を持っています。

平成25年度(第68回)芸術祭参加作品(ラジオ部門ドキュメンタリーの部)

株式会社栃木放送 :歌を紡いで ~演歌を育てた男 神長瞭月~  10月20日(日)23:00~23:59

<感想>
*作曲家の船村 徹はインタビューの中で、演歌の種をまいた添田唖蝉坊は呼び捨てだがその芽を育てた神長瞭月に対しては神長先生と「先生」を付けていた。その後に続いたのんき節の石田一松も石田先生と呼んでおり、同業の先輩音楽家だと認めていると感じた。

*プロの作曲家からみればたしかに添田唖蝉坊は昔からある曲をちょっと変えた程度でとても作曲とはいえないと感じているのだろう。彼は作曲家(音楽家)というより作詞家であろう。

*楽器も演奏できない唖蝉坊が譜面を書くとは考えられず作曲などはしなかったのではなかろうか。唖蝉坊は金色夜叉の唄も詩は「熱海の海岸散歩する」とは違うが「美しき天然」のメロディを借用して歌っていた。楽器を使用する前の演歌というのはそういうものだったのではなかろうか。
  瞭月はレコード会社へ楽曲を売り込みに行っていたので作曲して譜面にしていた。番組の中でも瞭月は晩年に自分で作曲した曲をすべてみずから楽譜にして残そうとしていたといっていた。 

*瞭月の娘さん談として、瞭月がギターを使って作曲していたと話していた。バイオリンを初めて使った演歌師がギターで作曲したとは!常に流行を追い合理性のある作曲活動だと感じた。もちろんバイオリンによる作曲では限界がある。

*神長瞭月は単なる演歌師では終わらない多才な才能があった。演歌に初めてバイオリンを導入しただけではなく、作詞、作曲、音楽教室経営、特許取得など広範囲に活躍した。
しかし、才能がありすぎたためであろうか若くして街頭での演歌師としての活動は止めてしまった。また添田唖蝉坊のように反権力だけを売りにせず、営業的に大衆が求めるものを提供していった。悪く言えば大衆に迎合していったことになる。

*他の資料からも大正の初めには青年倶楽部というものを組織して、瞭月の作歌を印刷したものを売らしている。本人は「俗謡をもって今日の成功を得た」と自慢しているようで生意気な若者と見られていた部分もあった。当時の雑誌記事では「おのれの不明をあらわすもので唖蝉坊の方が一段上のように思われる。」とまで書かれている。

*神長瞭月の人生を見るとあの平賀源内をつい思い出してしまう。四国讃岐の足軽の身分でありながら江戸に出て多才な才能を発揮して江戸では大人気となったがどれか一つに集中することができなかった。、この道一筋の人としての業績は残せず、またあまり郷土にも貢献できなかった。

*世の中に貢献した有名人にはいろいろなタイプがあると感じた。全国的には有名でないが地元に残り郷土に貢献した人。全国的には有名だが郷土にはあまり貢献せずそれほと地元では有名でない人。全国的に有名で郷土にもいろいろな形で貢献して地元でも有名な人。
有名人でも功をなしとげて故郷に帰ること、つまり「故郷に錦を飾る」ことは大変難しいことだと実感した。

*一世を風靡した神長瞭月が全国的にも、栃木県内でも今は余り有名でないのが残念である。音楽的才能がある彼がずっと現役演歌師として活動してくれていたら今の歌謡曲はどのようになっていただろうか。

*大衆音楽に貢献した神長瞭月をもっと多くの人に知ってもらってバイオリン演歌、それに続く歌謡曲が歌い継がれることを望んでいる。「昭和ロマンを楽しむ会」ももっと昔のよき音楽を広めるように頑張って活動したい。

<参考資料>
路傍の流行唄(みちばたのはやりうた) 谷人生
『文芸倶楽部』大正2年(1913)11月号に掲載された、「路傍の流行唄」はバイオリン演歌全盛時代の密着取材記事である。当時の時代背景、演歌師の実態、曲目等がよく分かる。この中から神長瞭月に関する記載を転載する。

レポーターの谷人生は添田唖蝉坊を高く評価しており、自分の成功を自慢する神長瞭月に対しての評価は厳しい。

「神長瞭月は青年倶楽部というものを組織して、やはりおのれの作歌を印刷したものを売らしている。本人の自家広告に、岩谷小波氏はお伽文学で大成した人である、自分は田舎から出て約10年の辛苦、赤手空拳よく俗謡をもって今日の成功を得たものであると吹いている。小波氏と自分を比較するところは大した度胸である。少年文学でもそれで成功したからエライ、俗謡でもそれで成功したからエライ、なんでも成功さえすればよいのだという意味らしいが、こうした自己広告はたまたまおのれの不明をあらわすもので、われらの眼からみれば唖蝉坊の方が一段上のように思われる。」

昭和ロマンを楽しむ会 帝大生ゆめじ                   



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プロフィール

tyumeji

Author:tyumeji
日本の大道芸をみたりやったり、日々の活動を報告する。
昔懐かしきあのメロディーや風景を紹介します。

バイオリン演歌 大正演歌 書生節 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師  昭和ロマンを楽しむ会(享受昭和浪漫的会) 戦時歌謡

昭和ロマンを楽しむ会 http://peaman.raindrop.jp/syowa-roman/index.htm

書生のアルバイトであったバイオリン演歌・書生節や「のぞきからくり」等の日本の大道芸について調べたりしたことを紹介する。 帝大生ゆめじ

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